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NBAの歴代選手や歴代チームの紹介などをするブログです。

【選手紹介】史上最強の必殺技を編み出したセンター:カリーム・アブドゥル=ジャバー(3/3)

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史上最高レベルの個人達成度を残した歴代センター

前回はカリームが個人としてスターレベルでプレーしながらも優勝できるメンバーをそろえることができなかったバックスを去り、バックスとは正反対の大都市のチームであるレイカーズに移籍してからの序盤シーズンについて紹介しました。カリームは移籍してすぐにシーズンMVPを受賞しましたが、レイカーズで初めて出場したプレーオフでは惜しくもNBAファイナルで敗退してしまいました。今回は史上最多の6度のシーズンMVP受賞と41歳までプレーし6回の優勝を成し遂げたレジェンドのキャリア終盤について紹介していきます。

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プレーオフで勝ち抜けない時期~新たな相棒の到来

昨年ブレイザーズにファイナルでスウィープで敗退してしまった悔しさを胸に新シーズンに挑んだカリームでしたが、1977~1978シーズンの開幕戦のわずか2分で右手を骨折してしまいました。1975年にもカリームは同じ手を骨折しており、回復に時間がかかり彼は復帰までに約2か月をかけることになります。カリームが開幕戦から2カ月プレーしていなかったことでチームは8勝13敗と負け越しており、プレー機会が少なかったことで実力は申し分なかったもののオールスター選出を受けることはありませんでした。引退後に明らかになりますが、彼がキャリアでオールスター選出を受けなかったのはこのシーズンのみでした。しかしこのオールスター選出を逃したことが彼のパフォーマンスに火をつけ彼はロスター発表があった日のシクサーズとの試合で39得点20リバウンド6アシスト4ブロックを記録し、オールスターブレイク前のネッツとの試合でも37得点30リバウンドを記録してチームを勝利に導きました。

このように彼はいまだに個人としては圧倒的な選手として活躍しており、このシーズンの終わりにはオールNBA2ndチームとオールディフェンシブ2ndチームに選出されたものの、チームはやはりスターパワーに欠けておりプレーオフではスーパーソニックスに1回戦で敗れました。そして再びプレーオフに挑んだ1978~1979シーズンにも2回戦でスーパーソニックスに敗れカリームというスター選手を擁しながらも勝つことができないレイカーズはこの年のドラフトでもう1人のレジェンドを獲得することになります。

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最後のシーズンMVP~レイカーズの王朝時代

1979年、バードとマジックの2人の大学スター選手がいたNBAドラフトでチームをコントロールでき、カリームとコンビを組むことができるハンドラーを求めていたレイカーズは1位指名権を使ってマジックを指名しました。この氏名がチームを大きく変えることになり、マジックのアップテンポなバスケットボールと天性のアシスト能力はカリームをさらに止められない選手へと押し上げました。1979~1980シーズンのカリームはFG60.4%のキャリア最高シューティングパーセンテージを残し、24.8得点10.8リバウンド4.5アシスト1.0スティール3.4ブロックを記録しキャリア6度目で最後のシーズンMVPを受賞しオールディフェンシブ1stチームに選出されました。32歳と全盛期の終盤に入っていたカリームはジャマール・ウィルクスとマジックの2人のスターを得たことでプレーしやすくなっており、プレーオフでは31.9得点12.1リバウンド3.1アシスト1.1スティール3.9ブロックを平均し、圧倒的なパフォーマンスで8年ぶりのNBAチャンピオンに輝きファイナルMVPを受賞しました。

翌シーズンはマジックが45試合を欠場し、その間もカリームはチームを支えるべく奮闘しましたが、マジックの調子がプレーオフでも戻ることはなく、1回戦でロケッツに敗れてしまいました。

カリーム、マジック、ウィルクスと確実なBIG3がいながらも連覇することができていなかったレイカーズでしたが、マジックが完全復活した1981~1982シーズンはプレーオフファイナルのシクサーズ戦での2敗以外はすべて無敗でシリーズを突破しました。34歳になっていたカリームはパフォーマンスが落ち始めていたもののマジックのプレーメイキングに助けられ、20.4得点8.5リバウンド3.6アシスト1.0スティール3.2ブロックを記録して3度目の優勝を成し遂げました。

翌シーズン、翌々シーズンはシクサーズとセルティックスに敗れ優勝から遠ざかってしまったシーズンになりました。プレーオフでは負けてしまったものの、レイカーズにはディフェンシブガードのマイケル・クーパーや身体能力の高い高身長プレーヤーのボブ・マカドゥーが所属しており、ウィルクスがいたときよりもむしろチームとしてのバランスは良くなっていました。

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最後のファイナルMVP~6度目の優勝と最後のシーズン

2年連続でプレーオフファイナルまで進出しながらも惜しくも優勝を逃してしまったレイカーズとカリームでしたが、1984~1985シーズンにはマジックを中心としてフリースタイルにプレーを展開する戦略がチーム全体に浸透し、HCのパット・ライリーも彼にプレーメイキングを任せきっていたことでマジックが選手として1段階成長しました。カリーム自身は37歳になっており、選手としては正直下降線に入っていましたがプレーオフでは34歳の自分を超える21.9得点8.1リバウンド4.0アシスト1.2スティール1.9ブロックを平均し、ライバルのセルティックスを破って優勝を成し遂げました。さらに驚くべきことに彼は37歳ながら優勝に最も貢献した選手としてマジックを抑えてファイナルMVPに選出されました。

翌シーズンはロケッツに敗れて連覇することはできませんでしたが、1986~1987、1987~1988シーズンにようやく連覇を達成することができ、カリームは継続的に優勝に貢献できる選手だということを証明することができました。そして連覇を達成した翌シーズンに彼は引退を表明し、41歳で19年の長いNBAキャリアに幕を閉じました。

まとめ

いかがだったでしょうか。カリームは19年の長いキャリアで18回のオールスターに選出され、6度の優勝とシーズンMVP、若い時期と高齢になってからの2回のファイナルMVPを受賞し、15回のオールNBAチームと11回のオールディフェンシブチームに選出されました。彼の受賞歴は時代のせいで少し過大評価されたものかもしれませんが、それでも41歳でもオールスター選手として活躍することができる彼の実力は本物でしょう。

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【選手紹介】史上最強の必殺技を編み出したセンター:カリーム・アブドゥル=ジャバー(2/3)

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2つのチームでレジェンドになった男

新興チームのバックスに大学最強選手としてドラフトされて、ロバートソンと結成した時代最強コンビで圧倒的な強さを見せつけて2年目選手ながらシーズンMVP、リーグ優勝、ファイナルMVPと数多くの栄冠を手にしたカリーム。彼はバックスの歴史に名を刻むような選手として活躍しましたが、移籍先のレイカーズでも記憶に残る選手になります。今回はカリームのキャリア中盤について紹介していきます。

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最強の個人シーズン~相棒の引退と移籍

2年目選手として早くも優勝を成し遂げたカリームはその絶対的な個人の力を1971~1972シーズンも見せつけました。彼は34.8得点16.6リバウンド4.6アシストを平均して2年連続の得点王とシーズンMVPを受賞しました。前年と変わらない強さを見せてプレイオフに出場しましたが、2回戦でウェストとチェンバレンのレイカーズに敗れ、彼の2度目のシーズンMVP獲得シーズンは終わってしまいました。

1972~1973シーズンも個人としては順調に平均30.2得点16.1リバウンド5.0アシストを記録したカリームでしたが、この頃にはロバートソンは平均15.5得点とかなりパフォーマンスが落ちてきており、ネイト・サーモンドとリック・バリーを擁するウォリアーズにスターパワーとチーム力の両面で違いを見せつけられてプレイオフでは1回戦で姿を消しました。

そして5年目の1973~1974シーズン、カリーム自身は27.0得点14.5リバウンド4.8アシスト1.5スティール3.5ブロックを平均しリーグ最強レベルの選手として活躍しており、3度目のシーズンMVPを受賞しました。しかしながらチームの2番手としてカリームを支えていたロバートソンは34歳になり平均得点が12得点台まで落ち込み、レイカーズのウィルトとウェスト、ウォリアーズのサーモンドとバリーのようなスーパースターコンビを結成することができなくなっていました。プレイオフではカリームが32.2得点15.8リバウンド4.9アシスト2.4ブロックを平均し、怪物的なパフォーマンスを記録したことでチームはNBAファイナルまで進出することができました。しかし、チームの2番手としてプレーしていたボブ・ダンドリッジは平均19.3得点とチーム2番目のスターとしては満足できないパフォーマンスを残していたため力負けし、久しぶりの優勝チャンスを逃してしまいました。

そしてこのシーズンのオフに、年齢的にもパフォーマンス的にも限界を迎えていたロバートソンがチームを去り、カリームはついにチームにトレードを要求しました。彼にとって最も魅力的だったチームはニックス、2番目のチームはブレッツ、3番目のチームはレイカーズであり、彼はバックスのことが嫌いなわけではありませんでしたが、ミルウォーキーの街の文化にフィットすることにストレスを感じていたそうです。彼はプレーシーズンの試合で目と手を負傷し、シーズン開幕後の16試合を欠場しました。その間チームは3勝13敗の成績に沈み、ついにカリームは3月中旬にレイカーズへトレードされ臨んだチームへ移籍することができました。

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新天地での大活躍~若手の新鋭との対決

1975年の3月中旬にレイカーズにトレードされたカリームは1975~1976シーズンにいきなり大活躍し27.7得点16.9リバウンド5.9アシスト1.5スティール5.0ブロックを平均しました。このシーズンの彼はリバウンドとブロックでリーグ最高の記録を残し、1,111ディフェンシブリバウンドは1シーズンの最高記録で今でも破られていません。彼はバックスにいたときと変わらない活躍を残し、チームは40勝42敗と負け越しのシーズンを送っていましたがそれでも4度目のシーズンMVPを受賞しました。プレイオフには出場できませんでしたが、このシーズンのカリームのパフォーマンスはレイカーズの歴史に残るようなものでした。

オフに数人の無名選手をFAとして獲得したレイカーズは特に強豪チームとして活躍することを期待されてはおらず、むしろディビジョンで最低のチームになるだろうと予想されていました。チームで2番目に平均得点が多かったキャジー・ラッセルですら16.4得点しか平均することができておらず、その予想は大方当たっていると考えられていましたがカリームの活躍が圧倒的だったことが大きな原因でレイカーズは世間の予想を裏切って53勝29敗でプレイオフに出場しました。プレイオフでも1回戦でウォリアーズを最終7戦で破り、2回戦で同じセンターポジションで圧倒的な実力を誇っていたビル・ウォルトンが率いるブレイザーズと対戦しました。カリームはシリーズ平均30.3得点16.0リバウンド3.8アシスト1.4スティール3.8ブロックを記録し、ウォルトンを得点面では抑えることができました。しかし彼の強みであるアシストを止めることができず、チームの得点力が劣っていたレイカーズはブレイザーズのオフェンスに押し切られる形でスウィープで敗れ、シリーズ敗退しました。

まとめ

いかがだったでしょうか。今回紹介したキャリア中盤はカリームのキャリアの中でも珍しく優勝することができなかったシーズンばかりでした。その原因はカリーム自身にあったというよりも、相棒が衰えてしまったりそもそも相棒として十分な実力を持ったチームメイトがいなかったりと、どちらかというとチームや環境が原因となっています。その証拠にカリームはこの時期に得点王、シーズンMVP、リバウンド王、ブロック王と多くの個人賞を受賞しています。

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【選手紹介】史上最強の必殺技を編み出したセンター:カリーム・アブドゥル=ジャバー(1/3)

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コピー不可能な技を駆使した史上最高レベルのセンター

カリーム・アブドゥル=ジャバーと言えば、6度のNBAチャンピオン、レギュラーシーズンMVP受賞に始まり4度のブロック王や合計15回のオールNBAチーム選出を受けるなど史上最強の選手のディベートにその名前が挙がるような偉大な選手です。彼はバックスとレイカーズの2チームでプレーしその中でセンターとしては明らかに歴代最強選手として文句なしのキャリアを積み上げてきました。彼はNBAに入る前から文字通りの化け物として活躍しており、それの実力はNBAに入ってすぐに証明されました。今回はカリームのキャリア序盤について紹介していきます。

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超人的な大学キャリア

カリームことルー・アルシンダーはニューヨークの街で生を受け、生まれつき身長が高かった彼は14歳になるころには203cmまで身長が伸びていました。その頃には余裕でダンクをすることができるようになっており、彼は高校生の時にその才能を開花させました。彼を中心選手としてチームは71連勝を記録しその活躍を見たUCLAは216cmの長身を活かした将来の殿堂入り選手をスカウトすることになります。

UCLAに入ったアルシンダーは1年目は規定により公式戦に出場することができませんでしたが、彼は校内で行われたエキシビションゲームで31得点21リバウンドを記録して75対60で1年生チームを勝利に導きました。上級生チームがエキシビションゲームで負けることは初めてのことであり、このパフォーマンスはすぐに全米に広がりました。1966年にようやく2年生としてデビューを果たし、初めての公式戦で52得点を記録して早くも将来のスーパースターと呼ばれるようになりました。彼はこのシーズン29得点を平均してチームを無敗の30勝0敗に導き全米チャンピオンに押し上げました。アルシンダーは長身を活かしたダンクを得意としており、そのおかげで多くの得点を効率よく生み出すことができていましたがこれを問題視した大学バスケ界は彼のダンクを禁止するルールを作りました。

ダンクを禁じられたアルシンダーは確実にインサイドで得点をするための方法を日々考えるようになり、この時にあの「スカイフック」は生み出されました。彼の空中でもぶれない強い体幹とリングより上の位置から放たれるフックシュートはかなりの高確率で得点につながりました。この技を使って彼は大学キャリアをトッププレーヤーとして駆け抜け、最終的に3回のNCAA優勝、シーズンMVPとトーナメントMVP受賞の偉業を成し遂げ大学キャリア平均26.4得点という絶対的な実績を残してプロとしてキャリアをスタートさせることを決意します。

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チームを激変させた衝撃のルーキーシーズン

大学で圧倒的な実力を見せつけたアルシンダーでしたが彼は1969年のNBAドラフトにみではなくABAドラフトでも全体1位で指名を受けました。NBAではバックス、ABAではネッツが彼をドラフトしており、アルシンダーはニューヨーク出身だったため初めはネッツが優勢と見られていましたが、ネッツのオファーの仕方が気に入らなかったアルシンダーはNBA入りを決めました。前年に新設チームとして誕生したばかりのバックスは良い選手を集めることができず苦戦していましたがアルシンダーが加わったことでチームは大きく変わりました。彼は28.8得点14.5リバウンド4.1アシストを平均して新人王を受賞し、チームを東で2位の56勝26敗の成績まで導きました。彼が加入する前の年は27勝55敗しか残すことができなかったことを考えると彼の影響力は非常に大きかったのでしょう。プレイオフに出場し、1回戦ではビリー・カニングハム擁するシクサーズと対戦しました。アルシンダーは初プレイオフで不調に陥るどころか、さらに調子を伸ばしてシリーズ平均36.2得点15.8リバウンド3.4アシストを記録しチームの初プレイオフでのシリーズ突破を演出しました2回戦に進出しましたがそこでウィリス・リードとウォルト・フレイジャー擁するニックスと対戦しました。アルシンダー自身は1回戦よりもさらにパフォーマンスを上げ、34.2得点17.8リバウンド4.8アシストを平均し奮闘しました。しかし彼の奮闘もむなしく、経験不足が露呈し他のメンバーがそこまで活躍することができなかったことでアルシンダーの1年目シーズンは終了してしまいました。

アルシンダーの周りにもう1人のスター選手が必要だと感じたチームは何とかスター選手を獲得しました。その選手とはオスカー・ロバートソンであり、年齢的には全盛期を完全に過ぎていましたが高い身体能力とパス力を活かしたプレーでアルシンダーと共にバックスの黄金コンビを結成しました。このシーズンチームは前年からまたしても勝率を上げて66勝16敗を記録しました。この躍進の立役者になったカリームは2年目選手ながらシーズンMVPを受賞しましたが、このシーズンの彼の平均スタッツは31.7得点16.0リバウンド3.3アシストで完全にスーパースターとして活躍していました。ロバートソンとアルシンダーのコンビはリーグで最強のコンビとして躍進を続け、結成1年目で出場したプレイオフでも破竹の勢いで勝ち続けました。1回戦でサンフランシスコ・ウォリアーズを4勝1敗で降し、2回戦ではレイカーズを破りました。当時はプレイオフは3回戦形式だったため3回戦のNBAファイナルではワシントン・ウィザーズを4勝0敗のスウィープで破ってソフォモアシーズンにNBA制覇を成し遂げました。このプレイオフでカリームは26.6得点17.0リバウンド2.5アシストを平均し、絶対的な中心選手としてチームを優勝に導きました。もちろんファイナルMVPを授賞しスーパースターどころかこのシーズンを見るだけで将来確実に殿堂入りするだろうと確信するようなシーズンを過ごしました。

まとめ

いかがだったでしょうか。カリームは1年目のパフォーマンスで将来のトップスターになることを確信させ、2年目のシーズンにはレジェンドになることを予感させるような活躍を残してくれました。あのレブロンですら2年目3年目はスーパースターになるかもしれないという予感がするという程度だったので、カリームのこのインパクトの強さは再度まとめる必要もないほどのものでしょう。

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【選手紹介】プレーした時期に恵まれなかった史上屈指のダンカー:ドミニク・ウィルキンス(3/3)

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タイミングとケガによってキャリアが変わったスター選手

前回の記事では強力なチームメイトを得たころからケガから復帰したウィルキンスのキャリア中盤について紹介しました。ウィルキンスはマローンという新たな相棒を得ました。しかしそれでもウィルキンス自身のプレイオフでの不調や周囲のチームのレベルが急上昇したことでプレイオフ2回戦を突破することはできませんでした。そしてマローンがチームを去った後にウィルキンスに最悪のケガが起こってしまい、何とかスターとして次のシーズン復帰しましたがそれでもチームは優勝を目指せるチームになることはできませんでした。今回はキャリアの大半を尽くしたチームから放出された後のキャリア終盤について紹介していきます。

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クリッパーズへの放出~ヨーロッパでの挑戦

NBAに入ってから11年と半年間の間ホークスに尽くしたウィルキンスでしたが、アキレス腱断裂を負い11年もの間プレイオフで期待された結果を残すことができなかった彼は1994年の2月にクリッパーズへトレードされてしまいました。このトレードが起こるまでにウィルキンスは平均24.4得点6.2リバウンドを記録しており、チームもカンファレンスでトップの成績を残していました。しかしシーズンの終わりには35歳になり契約が切れるケガのリスクの高いスター選手をキープすることに不安を感じたホークスは戦略的に彼をクリッパーズへ放出しました。ウィルキンスはホークスにいた期間で通算23,292得点を記録し、チーム史上トップの合計得点を残した選手になりました。

このトレードが起こったシーズン終了後クリッパーズはホークスと同じ理由で彼を再契約することはせず、ボストンがウィルキンスをFAとして新たに契約を締結しました。ボストンでは1シーズンのみプレーし、平均17.8得点5.2リバウンドを記録しました。しかしながら明らかにケガと年齢の影響がパフォーマンスに出ており、再建中だったボストンでプレーすることに不満だった彼は1994~1995シーズンの終わりにヨーロッパでプレーすることを決心します。

NBAでのシーズンを終えギリシャリーグのパナシナイコスアテネと契約を結んだウィルキンスは35歳ながら平均33.2分プレーし20.1得点7.4リバウンドを記録しました。NBAでの経験とリーグ内ではまだまだ最高峰のレベルだった身体能力を使ってチームをユーロリーグのチャンピオンに押し上げました。ウィルキンスはこの大会でファイナルMVPに輝き、ギリシャリーグのチャンピオンシップでもチームが敗戦しながらも個人の圧倒的な活躍が評価されファイナルMVPを受賞しました。NBAでのキャリアを諦めていたウィルキンスでしたが、この活躍を見たスパーズが彼をピックしウィルキンスは再びNBAでプレーするチャンスを得ることができました。

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再び得たチャンス~最後まで報われなかったキャリア

1996~1997シーズン、ヨーロッパで確かな実績を残してスパーズの一員としてNBAに復帰したウィルキンスは36歳ながら18.2得点を平均しチームトップの得点を残しました。ベテランとしてチームの精神的支柱として活躍しながらも一番のスコアラーとして活躍しましたが、彼の奮闘もむなしくチームは20勝62敗に沈み勝利を求めていた彼はこのシーズンの終了後に再度海外でプレーすることを選びました。

今度はイタリアリーグのボログナというチームと契約したウィルキンスは34試合に出場し平均33.5分のプレータイムで17.8得点7.3リバウンドを平均しました。そしてシーズン終了後にまたしてもマジックと契約をしNBAに復帰したのを最後にウィルキンスはNBAから引退しました。

まとめ

いかがだったでしょうか。ケガをしてからもスター選手として活躍しマジックとのシーズン以外では平均得点が17得点を下回ったシーズンはありませんでした。NBA制覇を成し遂げることはできませんでしたが、アキレス腱断裂のケガを乗り越え最後まで年齢にあらがってプレーを続けたウィルキンスのバスケットボールに対する姿勢は尊敬できるものです。

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【選手紹介】プレーした時期に恵まれなかった史上屈指のダンカー:ドミニク・ウィルキンス(2/3)

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様々な要因に阻まれた王者への道

前回はウィルキンスのNBA入りからスーパースターへの成長、そしてプレイオフを勝ち抜けなかった時期について紹介しました。ウィルキンスは個人としては得点王受賞やオールNBAチーム選出、スラムダンクコンテストチャンピオンなど多くの栄誉を若くして得ていましたが、NBA優勝を成し遂げることはできていませんでした。これにはジョーダンの登場やセルティックス王朝など外的要因が多く影響していましたが、キャリア中盤でも同じような他チームの影響を受け続けることになります。今回はウィルキンスのキャリア中盤について紹介していきます。

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大規模な補強~ディフェンディングチャンピオンの壁

前年王朝を築いていたセルティックスをあと一歩のところまで追い詰めたホークスにはこの1988~1989シーズンこそ優勝の年だというファンの大きな期待が寄せられていました。そしてチームはその期待に応えるべく大きく補強に乗り出しました。ホークスはトレードで34歳ながら優秀なCだったモーゼス・マローンとスコアリングを得意としていたレジー・セウスをトレードで獲得しました。2人の新たな得点源を得たことでウィルキンスのボールタッチは減り、平均得点も26.2得点と大きく下がってしまいましたが、それでもチームリーダーとして圧倒的な実力を誇っていた彼は当然のようにオールスター選出とオールNBA3rdチーム選出を受けます。この年マローンは33歳ながら20.2得点11.8リバウンド、セウスは平均15.8得点を挙げており、ケビン・ウィリスが離脱していたチームをしっかりと支えてプレイオフに出場しました。プレイオフ1回戦ではリッキー・ピアースやテリー・カミングスがいたバックスと対戦し、マローンが21.0得点とウィルキンスが27.2得点を平均し奮闘しましたが、またしても最終7戦で敗れ大補強もむなしくオフに入りました。

翌シーズン、セウスはマジックのエクスパンションドラフトで指名されたためteamを去ってしまいましたがマローンはチームに残っており、ウィリスもケガから復帰していたためそこまでチームの実力は落ちませんでした。ウィルキンスは26.7得点を平均し得点ではリーグ5番目の成績を残し、スティールではチームトップの1.6本を記録しました。このシーズンのウィルキンスはルーキーシーズン以来最高の効率でシュートを沈めており、2PT50.4%FG48.4%で得点を積み重ねました。ウィルキンスは活躍しマローンとウィリスは変わらないパフォーマンスを発揮していましたが周囲のチームが強くなったため相対的にチームの成績は下がり、41勝41敗の勝率5割ちょうどでシーズンを終えました。この年は1985年以来プレイオフを逃すシーズンとなり、30歳になっていたウィルキンスに残された時間は少なくなっていました。

そして迎えた1990~1991シーズン、31歳と選手としての全盛期後半に入っていたウィルキンスはパフォーマンスに低下がみられ、平均得点も25.9得点と低下しました。しかしリバウンドではキャリアハイの9.0本を平均し、リバウンドと得点の2つのカテゴリでチームをリードしていました。このシーズンからウィルキンスは積極的に3PTをオフェンスの選択肢の1つとして取り入れるようになり、34.1%という時代にしてはそこそこの確率でシュートを決めていました。この年はオールスター選出とオールNBA2ndチームに選出され、相変わらずのスーパースターとしての活躍でチームをプレイオフに引き戻しました。1回戦で前年チャンピオンのピストンズと対戦したウィルキンスは1戦目こそ32得点でチームを勝利に導きましたが、それ以降の試合ではシュートの調子が上がりませんでした。FG37.2%3PT13.3%とレギュラーシーズンとは悪い意味でかけ離れたパフォーマンスで平均20.8得点に終わり、5戦でシリーズ敗退を喫しました。

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キャリアを一変させる大ケガ~王朝への挑戦

1991~1992シーズン、ウィルキンスは1月のシクサーズとの試合でアキレス腱断裂の大けがを負ってしまい、手術を受け残りのシーズンを全休することになりました。彼はそれまでの試合で28.1得点を平均しており、12月のニックス戦では52得点を挙げてダブルオーバータイムまでもつれた激戦を制しました。また、このシーズンに彼はキャリア通算20,000得点を突破し史上16人目の選手として歴史に名を刻みました。ケガをする前のパフォーマンスは前年を超えるようなものだったためこのケガは非常に残念でしたが、それよりも残念だったのは彼がこのケガをきっかけにスーパースターとして活躍する期間が短くなったことです。

ケガから復帰した1992~1993シーズン、ウィルキンスはシーズン開幕から1カ月で平均27.7得点を記録して世間にアキレス腱断裂からの復活をアピールしました。12月に右手の薬指を骨折してしまいまたしても欠場が続きましたが、1月には復帰し最終的にはシーズン平均29.9得点を記録して久しぶりの得点王レースで2位につけ、オールNBA2ndチームに返り咲きました。このウィルキンスの復活はチームに希望を与えましたがプレイオフではジョーダンとピッペン、そしてホーレス・グラント擁する前期王朝ブルズに1回戦でスウィープされ復活シーズンを終えました。

まとめ

いかがだったでしょうか。今回紹介したキャリア中盤ではマローンという強力なチームメイトを得たにもかかわらずプレーオフで自信が不調になったり、接戦で負けてしまったりと肝心なところでパフォーマンスを発揮しきれなかったシーンが目立ちました。また、キャリア序盤と同じように周りが急激に強くなり相対的にチームとしての実力が劣ってしまうということもあり、やはりウィルキンスのキャリアは何かに呪われているかのようなものです。

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【選手紹介】プレーした時期に恵まれなかった史上屈指のダンカー:ドミニク・ウィルキンス(1/3)

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「ハイライトマシーン」を体現したスーパースター

「ヒューマンハイライトフィルム」この通り名こそウィルキンスがスター選手だったことの1番の証明でしょう。彼はその通り名の通り数々のハイライトを生み出し、そのダンクは多くの人を魅了しました。彼がスター選手としてプレーしていた時期はあのジョーダンと同時期だったためシーズンMVP受賞やNBAチャンピオンなどのNBAプレイヤーの多くが求めるものを得ることはできませんでした。しかしそれでも彼の功績は無視できるようなものありませんので今回はウィルキンスのキャリア序盤について紹介していきます。

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NBAにドラフトされたハイライト製造機~スーパースターへの成長

ジョージア大学でその高い身体能力を活かしたプレーをしていたことで多くの注目を集め、多くのハイライトプレーをしていたウィルキンスは1982年のNBAドラフトでジャズに全体3位で指名されました。3位でドラフトされたウィルキンスでしたが、もとよりユタでプレーしたいとは考えておらずその考えを知ったジャスは彼をホークスへトレードしました。

ドラフトされたその年から82試合すべてにスタメン出場し、ルーキーながら平均17.5得点を記録したウィルキンスでしたが、新人王を受賞することはできずダンカーとしての始まりとなる3年目のシーズンを迎えました。このシーズンは彼の高い身体能力と跳躍力、そしてそれらを活かしたダンクが評価され初めてのスラムダンクコンテストに出場しました。このコンテストにはジョーダン、ドレクスラー、ラリー・ナンス、ジュリアス・アービングなどの数々の有力なダンカーが参加していましたが、彼らを撃破してウィルキンスは2年目選手としてコンテストを制しました。ダンカーとして確実な地位を築いたウィルキンスでしたが、スコアラーとして非常に優秀な成績を残しました。彼は平均27.4得点6.9リバウンド1.7スティールを記録して得点ではリーグ6番目の数字を残し、一気にスーパースターとして成長しました。

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得点王シーズン~思うようにいかないプレイオフ

翌シーズン、ウィルキンスはシーズン平均30.3得点を記録してキャリア最初で最後の得点王を受賞しました。初めてオールスターのスターターそしてオールNBA1stチームにも選出され、正真正銘のスーパースターとしてシーズンを通して活躍しました。このシーズン、チームはスーパースターのウィルキンスに加え、スター選手として活躍していたスパッド・ウェブを契約しており、彼らの活躍が主な原因で50勝32敗を記録してプレイオフに出場しました。チームは1回戦でピストンズを撃破し2回戦に進出しましたが、2回戦ではセルティックスに敗れ力の差を見せつけられました。チームとしての差を感じる敗戦の形にはなりましたが、ウィルキンスはプレイオフで28.6得点を平均しエース選手として個人では大きく活躍していました。

1986~1987シーズン、ウィルキンスはリーグ2位となる29.0得点を平均し、4月16日のブルズとの試合でキャリア通算10,000得点を突破しました。平均得点ではリーグ2位でしたが、得点王のジョーダンは37.1得点を記録しており同じスコアラーとして格の違いが明らかになったシーズンでした。それでもウィルキンスが優秀な選手であることは変わらずチームの成績は57勝25敗を記録して2年連続でプレイオフに出場しました。1回戦ではペイサーズを破って2回戦に進出したものの、2回戦で昨年のリベンジに燃えるピストンズに敗れホークスはプレイオフに弱いという印象が付きました。そしてその印象はウィルキンスの評価にも原因があり、彼はこのプレイオフでレギュラーシーズンよりも低い平均26.8得点を記録しており、スーパースターながらプレイオフでは調子が落ちる選手というイメージが作られました。

翌1987~1988シーズン、ウィルキンスはキャリア最高となる30.7得点を平均しました。しかしこの年もジョーダンが平均35.0得点を記録しており、またしてもウィルキンスは得点王レースで2位に終わり得点王になるチャンスを逃しました。この年、ジョーダンはウィルキンスとスラムダンクコンテストでも戦っており、彼はコンテストでも優勝しており完全にウィルキンスの上を行くシーズンを過ごしていました。結果的にジョーダンの咬ませ犬のような扱われ方をされてしまったシーズンになりましたが、ウィルキンスはオールNBA2ndチームに選出されており、週間最優秀選手にも3度選出されています。50勝32敗でプレイオフに出場し、2回戦でバード擁するセルティックスと対戦しました。この試合は最終7戦までもつれる激闘になりましたが、118対116で敗れてしまい3年連続2回戦敗退という結果になってしまいました。のちにバードはこの試合について「おれもミスしなかったし、あいつもミスしなかった。だからあの試合の結果はラストショットに委ねられたんだ。あの試合はおれが今までプレーしたり見てきた中で最高の試合だった。」と述べており、歴史に残るような試合だったことを強調しています。このプレイオフのウィルキンスは平均31.2得点6.4リバウンドを記録しており、歴史に残るようなパフォーマンスを発揮しました。

まとめ

いかがだったでしょうか。ウィルキンスはルーキー時代からスーパースターまで一直線に成長した数少ないプレイヤーです。彼のダンクには華があり、初めて優勝した1985年のコンテストの映像は何度でも見ることができます。バードのセルティックス王朝によって優勝を阻まれたり、ジョーダンに個人賞を奪われたりと踏んだり蹴ったりのシーズンを過ごしていたウィルキンスですが、この後もやはり同じようなキャリアを送ることになります。

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【選手紹介】奇跡の優勝を支えた縁の下の力持ち:ベン・ウォーレス(3/3)

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守護神の最後の数年間

前回の記事では、守護神としてピストンズの2004年の奇跡の優勝をゴール下の絶対的なディフェンスで支えたベンのキャリア中盤について紹介しました。彼は2005年に2連覇を目指しましたがその夢はかなわず、2006年のリベンジも失敗したのちにFAとして他のチームへ移籍しました。彼の全盛期は間違いなくピストンズに所属していた時期であり、それより先のキャリアはよく知らない方が多いのではないでしょうか。今回はそんな知名度の低いベンのキャリア後半について紹介していきます。

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新天地への移籍~ケガとの闘い

ベンは2006~2007シーズンに4年60Mの大型契約をブルズと結びました。当時ブルズのコーチを務めていたスコット・スカイルズはヘッドバンドを禁止するように働きかけていましたが、ベンには例外が認められ、彼はトレードマークを失わずに済みました。ブルズはカーク・ハインリッチ、ベン・ゴードン、ルオル・デングの3人のオフェンス力が知られていましたが、ベンを獲得したことでディフェンス的にも強みを持ったチームに生まれ変わりました。この年のベンは6.4得点10.7リバウンド1.4スティール2.0ブロックを平均しており、優秀なディフェンダーとして貢献しました。この頃には32歳になっており、衰えもあったため最優秀選手賞やオールディフェンシブチーム選出は逃してしまいましたがそれでもリーグ屈指のディフェンダーとして活躍していました。ブルズは49勝を記録してプレイオフに進出し、1回戦はまたしてもシャック擁するヒートでした。この年のヒートはエースのウェイドがケガで不安定なシーズンを送っていたためチームも本調子ではなく、ブルズはディフェンディングチャンピオンのヒートを破って2回戦に進みました。前チームのピストンズとの2回戦では、衰えが見えていたベンは攻略されプレイオフを敗退してしまいました。このプレイオフでベンは平均8.7得点9.5リバウンド1.5スティール1.7ブロックと低めのスタッツに終わり、明らかにキャリアの落ち目に入っていました。

ブルズは前年のプレイオフでのヒートの撃破によって大きな期待を背負って2007~2008シーズンに挑みました。しかしながら最初の25試合を9勝16敗と最悪のスタートを切ってしまったチームはこの流れを変えるためにキャバリアーズとスーパーソニックスの3チーム間トレードを成立させ、ベンもこのトレードに巻き込まれました。

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古巣への復帰

3チームトレードでキャバリアーズに移籍したベンはCポジションにジドルーナス・イルガウスカスがいたため彼はPFとして使われました。ベンはシーズン後半にトレードされましたが、トレード後の22試合すべてに先発出場し、4.2得点7.4リバウンド1.7ブロックを平均しました。プレイオフに進出したベンはここでもすべての試合にスターターとして出場しプレーしました。1回戦でウィザーズをスウィープして2回戦に出場しましたが、セルティックスに最終第7戦で敗れシーズンを終えました。ベンの獲得は明らかにチームのディフェンスにプラスになっており、トレード前は1試合平均98.2失点を許していましたが、トレード後は96.7失点まで失点を抑えられました。

キャバリアーズとの2年目シーズンとなった2008~2009シーズン、56試合に出場し2.9得点6.5リバウンド1.3ブロックを平均したベンはその明らかなパフォーマンスの落ちからサンズにトレードされましたが、最終的な行先は古巣のピストンズでした。

2009年、ベンはFAとしてピストンズと契約しました。2010年の11月30日には通算10,000リバウンドを達成し、34人の偉大な選手の仲間入りを果たしました。さらに、同年12月22日には通算1,000試合に出場し、ドラフト外選手として通算最高の出場試合数を記録した選手になりました。2016年には彼の背番号3番がピストンズの永久欠番になり、ドラフト外選手ながら偉大キャリアに一華添えました。

まとめ

いかがだったでしょうか。ベンはキャリア終盤の衰えが激しく、多くのチームをたらい回しにされましたが、最終的に元々の活躍の地であるピストンズに戻ることができました。ドラフト外選手として史上屈指のディフェンダーとしてリスト入りするほどの選手にまで這い上がり、あのシャックを1人でディフェンスすることができたベンのキャリアは間違いなく偉大なものでしょう。

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【選手紹介】奇跡の優勝を支えた縁の下の力持ち:ベン・ウォーレス(2/3)

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予想外の優勝と2度の最優秀守備選手賞

前回の記事でベンは苦労をしてNBA入りを果たした若い時代から、ブレッツとマジックでの下積み時代を乗り越えました。ピストンズにトレードされてからの彼は成長の一途をたどり、ついにはディフェンシブスターとして最優秀守備選手賞を受賞するまでの選手になりました。しかしながら、カンファレンス・ファイナルまで進出した2003年プレイオフでは東の優秀なPFに苦戦し、ネッツに敗れてしまいました。今回は求めていたオールスターPFを獲得し、ついに念願のNBA優勝を成し遂げたベンのキャリア中盤について紹介していきます。

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最強のチームワークを発揮した2004年のチャンピオン

2003~2004シーズン、前シーズンと同様にリーグトップの12.4リバウンドと3.2ブロックを平均し、インサイドでの支配力を見せつけていました。最優秀守備選手賞こそ、ロン・アーテストに取られて3年連続受賞とはなりませんでしたが、オールディフェンシブ1stチームとオールNBA2ndチームに選出されました。このシーズンのピストンズはトレードデッドラインの終了15分前にホークスからスターPFのラシード・ウォーレスを獲得し、さらにインサイドの力を伸ばしました。ベンとラシードのツインウォーレスは攻守の両方でチームをリードし、このシーズンのピストンズは54勝28敗の成績でプレイオフに進出しました。

1回戦ではバックスを5戦で破り、2回戦では宿敵のネッツと対戦しました。この年のピストンズはネッツのスターPFのケニオン・マーティンに対抗できる同じくスターPFのラシードがいたおかげで最初の2戦をとることができました。しかし、ここからネッツは執念の3連勝でピストンズを追い詰めました。世間はこの結果を見てピストンズは敗退すると思っていましたが、ピストンズはここから意地の2連勝でシリーズを制し、ペイサーズとのカンファレンス・ファイナルに進みました。ペイサーズもネッツと同じようにスターPFのジャーメイン・オニールがいましたが、ピストンズは6戦でシリーズを制しNBA関係者が予想だにしていなかったファイナル進出を成し遂げました。

この年のファイナルの相手はコービー&シャックのデュオにペイトンとマローンのレジェンド2人を加えたスーパーチームを結成していたレイカーズでした。コービーとシャックの仲は非常に険悪になっており、いつも喧嘩をしているようなチームになっていたレイカーズでしたが、それでも4人の将来の殿堂入り選手を有したチームにピストンズが勝てるチャンスはないと思われていました。しかしピストンズはチーム一丸となって行うオフェンスとディフェンスによって番狂わせの1回戦勝利を収め、2回戦では負けてしまいましたが3回戦ではディフェンスでレイカーズを完封して2勝1敗のリードを奪いました。そしてそのままの勢いで2連勝で優勝を成し遂げ、ベンはキャリア初の優勝を成し遂げました。ファイナルMVPはチームをコントロールしていたエースPGのビラップスでしたが、ベンは怪物のシャックを1人で守り切りプレイオフ平均で10.3得点14.3リバウンド1.9スティール2.4ブロック、ファイナル平均では10.8得点13.6リバウンド1.8スティール1.0ブロックを記録しており、ディフェンス面でのファイナルMVPでした。実際、ベンのレギュラーシーズンでのディフェンシブレーティングは87でそもそもリーグ最高の数値でしたが、プレイオフでは84まで数字を下げてさらにディフェンダーとして優秀な選手に進化していました。

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2連覇を目指した2004~2005年シーズン

優勝を成し遂げた次の2004~2005シーズン、、11月19日のペイサーズ戦で起こったスポーツ史上最悪の乱闘である「パレスの騒乱」に巻き込まれたことにより6試合停止処分を受けました。しかしそれでもベンのディフェンスの支配力は健在で平均9.7得点12.2リバウンド1.4スティール2.4ブロックを記録してアーテストに奪われた最優秀守備選手賞を奪い返しました。もちろんオールディフェンシブ1stチームとオールNBA3rdチームに選出され、30歳の全盛期真っただ中らしくスーパースターレベルでプレーしていました。プレイオフではシクサーズ、ペイサーズを破ってカンファレンス・ファイナルに進出しました。カンファレンス・ファイナルではヒートと対戦しましたが、ヒートには移籍1年目のシャックがおり、またしても最強のオフェンシブCと最強のディフェンシブCの対戦が見られました。ベンは昨年の対戦のようにシャックを抑えきることができず、このシリーズでのスタッツは平均7.4得点10.3リバウンド1.7スティール1.6ブロックと控えめな数字に収まりましたがそれでもチーム力でウェイドとシャックのスターデュオを破って2年連続のファイナルに進出しました。ファイナルではベンは奮闘して平均10.7得点10.3リバウンド1.7スティール3.0ブロックを記録しましたが、ダンカン、パーカー、ジノビリのBIG3に圧倒されてしまい2連覇を逃してしまいました。

まとめ

いかがだったでしょうか。ベンは2004年の奇跡の優勝を成し遂げたピストンズの1番大切なピースだったと思います。ベンがいなければインサイドで攻守の両方で相手を圧倒できるデュオを組むことはできませんでしたし、そもそもインサイドを強みとしたチームを作ろうと思いつくことはなかったと思います。NBAファイナルでもシャックを1人で止めたおかげで他のスターを守り切ることができましたし、あの年の本当のファイナルMVPはベンだったと心の底から思っています。

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【選手紹介】奇跡の優勝を支えた縁の下の力持ち:ベン・ウォーレス(1/3)

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絶対的な守備力を誇ったアンダードッグチームの守護神

2004年に奇跡的な優勝を果たしたデトロイト・ピストンズのゴール下の守護神として圧倒的な守備力を見せつけていたベン・ウォーレス。彼はドラフト外からNBAまで這い上がり、最終的には4度の最優秀守備選手賞受賞、4度のオールスター選出、2度のリバウンド王と1度のブロック王に輝くといった素晴らしい実績を残しました。彼の素晴らしいキャリアまでの道筋には長い物語がありますが、今回はその序盤について紹介していきます。

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屈辱的なドラフト~才能の片鱗

アラバマ州に生まれたベンはクリーブランドの小さな大学で2年間プレーしていましたが、そこで彼は17.0リバウンドと6.9ブロックを平均するほどの選手となりました。そしてそのディフェンス力とポテンシャルに目を付けたヴァージニア大学に引き抜かれたベンはそこで初めて高いレベルの大学バスケに触れることになりました。ディビジョン2の大学バスケは彼が今までプレーしていたようなレベルとは大きくかけ離れており、順応するのに苦戦しましたが、彼は13.4得点10.0リバウンドを平均するほどの選手に成長し、チームの重要なメンバーとして貢献していました。大学4年時にはディビジョン2のオールアメリカン1stチームに選出され、NBAにドラフトされる可能性も高くなっていると言われていました。そして確かな自信をもってエントリーしたNBAドラフトでは指名されることはなく、屈辱的な経験をした彼はイタリアに渡り、そこでプレーをしていました。

イタリアでプレーしていたベンの高いディフェンス力とリバウンド力に目を付けたワシントン・ブレッツが彼をピックアップしました。しかし彼の1年目のシーズンはそうそううまくいくことはなく、このシーズンの彼の平均プレータイムはわずか5.8分であり、ベンは34試合しか出場することができませんでした。しかし少しずつでありながら確実に成長を続けていたベンの努力は2年目シーズンから現れ始め、1997~1998シーズンに彼は67試合に出場しそのうち16試合にスタメンとして出場しました。

そしてブレッツでの最後の年となった3年目シーズン、短縮シーズンとなったシーズンで彼は46試合に出場し16試合ではスターターとしてプレーし、26.8分の出場で平均6.0得点8.3リバウンド2.0ブロックを記録し、ディフェンス面である程度のインパクトを残していました。しかしウェバーを失って以来プレイオフに出場することができなくなっていたチームは成長を続けていたベンをマジックへトレードし、アイザック・オースティンを獲得しました。

そして1999~2000シーズンにマジックへ移籍したベンはそこでスターターとして定着するようになり、81試合に出場しました。スターターとしてプレーしていた割には平均24.2分の出場と短い時間しかプレーすることができなかったベンですが、4.8得点8.2リバウンド1.6ブロックと確実なディフェンス面での貢献性を見せていた彼でしたが、プレイオフ進出を逃したチームはまたしてもベンをグラント・ヒルとのトレードで勝利を目指し、このトレードでベンはキャリアの転換点となるピストンズに移籍することになりました。

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運命のチームへの移籍~ディフェンダーとしての成長

ヒルとのトレードに巻き込まれピストンズに移籍したベンでしたが、ここで彼の才能は開花しました。1年目の2000~2001シーズンには平均6.4得点13.2リバウンド2.3ブロック1.3スティールとディフェンス面でさらに大きく成長し、チームをゴール下の守備で支えることができていましたが、チームは30勝52敗と大きく負け越してプレーオフに出場することはできませんでした。

翌シーズンの2001~2002シーズン、ベンは平均7.6得点13.0リバウンド1.7スティール3.5ブロックを記録し、オフェンスではなくディフェンスでゲームの流れを作ることができる数少ない選手として活躍していました。彼のディフェンス力はチームを大きく躍進させることにもつながっており、このシーズンのピストンズは50勝32敗の成績でプレーオフに出場し、1回戦を突破しましたが、2回戦でセルティックスの前に敗れました。ベンのディフェンス力はリーグの中でのトップクラスのものであり、このシーズン終了後に彼は206㎝のCながら初めての最優秀守備選手賞を受賞しました。また、オールディフェンシブ1stチームとオールNBA3rdチームにも選出され、オフェンス面で大きなインパクトを残せないながらもスーパースターの仲間入りを果たしました。

初めての最優秀守備選手に輝くことができた次のシーズン、ベンは平均6.9得点15.4リバウンド1.4スティール3.2ブロックを記録し2年連続で最優秀守備選手に輝きました。オールディフェンシブ1stチームとオールNBA2ndチームに選出され、リーグ2番目のCとして認められました。チームにはベン以外にもスター選手のチャンシー・ビラップスとリチャード・ハミルトンを獲得し、確実にオフェンス面でも順調に補強を進めていました。前年と同じく50勝32敗を残してプレーオフに出場したピストンズは1回戦でマジックを4勝3敗で、2回戦でシクサーズを4勝2敗で破りカンファレンス・ファイナルに進出しました。しかしながらネッツとのカンファレンス・ファイナルでは、ネッツのインサイドに対抗できるPFの欠落によってスウィープで敗れピストンズの躍進劇はストップしました。

まとめ

いかがだったでしょうか。ベンはCとしては低めの身長と決して高くない得点力というNBAで活躍するための基本的な能力や体格を持ってはいなかった選手でしたが、ピストンズでディフェンス能力を開花させてスター選手に成りあがりました。彼のハッスル精神はアスリートでない人でも参考にすべきものであり、次の記事で紹介するキャリア中盤では彼のその姿勢が実を結びついにNBA選手としての最高の栄冠をつかむことができました。

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【選手紹介】アジア史上最強のNBAプレイヤー:ヤオ・ミン(3/3)

f:id:koroUTAS:20211218121328j:plain優勝に手が届かなかったアジアバスケ界のヒーロー

前回の記事で紹介した範囲ではケガに悩まされ、1度はオールスター選手でなくなってしまった時期からケガから復帰してオリンピックで圧倒的な成績と支配力を残したヤオのキャリア中盤について紹介しました。この時期のロケッツはヤオとマグレディのリーグ屈指の才能を誇るデュオを中心として確実に優勝する可能性を持つチームを作り上げていました。今回はケガによってついには優勝を成し遂げることができなかったヤオの無冠のキャリアについて紹介しています。

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復活の巨人~1回戦突破

北京オリンピックでの大活躍を終えたヤオは来る2008~2009シーズンに挑みました。ヤオはこのシーズンを健康的に過ごして77試合に出場しました。これは2004~2005シーズン以降初めての70試合以上出場であり、これの結果はロケッツが今年こそNBAを制することができるのではないかとファンに強く感じさせました。度重なる足のケガによってヤオの身体能力は全盛期のそれと比べると衰えてしまっていましたが、それでも恵まれた体格と高いスキルを活かしてゴール下で大きな存在感を放っていました。このシーズン、ヤオは平均19.7得点9.9リバウンド2.0ブロックを記録しオールNBA3rdチームに選出されました。このシーズン中盤の2月にマグレディがシーズン全休となるケガを負ってしまいましたが、シェーン・バティエ、ルイス・スコラ、メッタ・ワールドピース(ロン・アーテスト)などの選手がチームに大きく貢献し53勝29敗の好成績を記録してプレイオフに出場しました。ロケッツには平均得点が2桁を超えている選手が6人もおり、このロケッツのチームには大きな期待が寄せられました。

プレイオフでは1回戦でブレイザーズと対戦しました。ブレイザーズとの試合でヤオは多少調子が上がらず平均15.8得点10.7リバウンド1.2ブロックを記録しオフェンスとディフェンスの両方でインパクトが落ちました。しかしこの年のロケッツには彼の不調を支えられる選手が多くおり、スコラが平均16.2得点6.7リバウンドをアーロン・ブルックスが平均15.7得点4.3アシスト3.2リバウンドを記録してチーム一丸となって4勝2敗で1997年以降初めての1回戦を突破することができました。

ヤオにとって初めての2回戦となったこのシリーズ、対戦相手はコービー、ガソル、オドムの3人のBIG3を擁し、優勝候補本命とされていたレイカーズでした。レイカーズホームで始まったこのシリーズでヤオは第1戦で28得点、ブルックスは19得点、ワールドピースは21得点を記録しまたしてもチームでの勝利をつかみ取りました。しかし第2戦ではコービーが40得点、ガソルが22得点14リバウンドでロケッツを圧倒し、第3戦ではコービーの33得点、オドムの16得点13リバウンドの前に敗れシリーズを1勝2敗で折り返しました。その後ロケッツは予想外の最終第7戦までシリーズを持ち込みましたが、第3戦でヤオは足首を負傷し離脱していたことでここぞという時に頼れる柱を失ってしまい7戦でシリーズ敗退を喫しました。

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スターからの転落~早すぎる引退

NBAキャリアで初めて1回戦を突破しながらも足首の負傷で離脱してしまったヤオは悔しい気持ちを抱えながらも復活のために足首の手術を受けることを決断し2009~2010シーズンを全休しました。

そして2010~2011シーズンに手術を終えてリハビリを乗り越えたヤオはNBAのコートに帰ってくることができましたがマグレディをケガによって放出してしまったロケッツはヤオに同じような道を歩ませることを恐れたのか最大24分までのプレータイムの制限を設け、連戦には出場させないことを決定しました。しかしその対策もむなしくヤオは12月中旬に左足首を疲労骨折してしまいそのままシーズンを全休することになってしまいました。5試合のみのプレーでシーズン全休が決まってしまったヤオですが、18分間のプレータイムで平均10.2得点5.4リバウンド1.6ブロックを記録していた彼の影響力はやはり印象的であり、オールスタースターターに選出されました。ケガをしていたのでプレーはしませんでしたが、ヤオは全休した2010年以外のすべての年でオールスターに選出されました。

そしてこのシーズンが終わった年にヤオはFAとなりましたが、彼のケガのリスクを考慮したチームが彼の獲得に動くことはなく、そのままヤオ6月20日に引退を表明しました。2016年にはバスケットボール殿堂入りを果たし、その輝かしいキャリアをさらに輝かしくしました。

まとめ

いかがだったでしょうか。ヤオはケガのせいでキャリアが非常に短命で終わってしまった選手ですが、デビューからシーズン全休をした2010年を除いてすべてのとしてオールスターに選出されるほどの実力と人気を兼ね備えていました。クリス・ボッシュと同じようにケガや病気が原因となる引退はもしこれがなかったらと想像されることが多いですが、ヤオはケガさえなければ本当にアジア人初のNBAチャンピオンになることができていたと思います。

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