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【選手紹介】薬物とアルコールによってキャリアが一変してしまったスーパースター:デビッド・トンプソン

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時代最高の身体能力とセンスを持ったスーパースター

ブレイザーズのレジェンドであるビル・ウォルトンが「デビッド・トンプソンはジョーダンとコービーとT-macとレブロンを合わせたような選手だった」と評し、ジャンプ力の権化であるようなジョーダン本人には「垂直跳びの概念はデビッド・トンプソンから始まった」と言わしめるほどの身体能力と才能を誇ったナゲッツの永久欠番のデビッド・トンプソン。彼は1975年にドラフトされてナゲッツで一気にスターダムを駆け上がりましたが、当時のNBAを象徴する薬物問題に巻き込まれてキャリアを台無しにした選手です。今回はそんな激動の時代を生きたデビッド・トンプソンのキャリアについて紹介していきます。

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偉大な大学キャリア~ABAとNBA両リーグからのドラフト指名

1973年にノースカロライナ大学を27勝無敗の成績に導いたトンプソンでしたが、この年ノースカロライナ大はトンプソンをスカウトしたことが発覚したためNCAAの規定によって大会に出場することが禁止されてしまいました。

しかしその翌年からその規定は適用されなくなったため1974年にトンプソンは再びチームを30勝1敗に導いて1位シードでNCAAトーナメントに出場しました。準決勝戦でトンプソン率いるノースカロライナ大は2回の延長戦を含む激戦を制して前年チャンピオンのUCLAを破り、決勝戦ではマーケット大学を76対64で降して優勝を果たしました。そしてこの試合で驚異的なジャンプ力を披露していたトンプソンには「Skywalker」という通り名がつけられ、アリウープなどの空中戦の概念はトンプソンによって作り出されノースカロライナ大学で初めて試合に取り入れられるようになりました。

NCAAトーナメントで優勝したノースカロライナ大は当時大学バスケ界最高の大会と称されたACCトーナメントにも出場し決勝戦でメリーランド大学と対戦しました。メリーランド大はFG63%という確率でシュートを沈めていましたが、試合は103対100でノースカロライナ大の勝利に終わり、トンプソンはジョーダンやラルフ・サンプソンなどの選手たちと並んでアトランティックカンファレンス史上最高の選手の1人として数えられるようになり、トンプソンの着ていた44番は大学の永久欠番になりました。そして大学でプレーした3年間通算で平均25得点8リバウンド以上を記録したトンプソンはその実力が評価され1975年のABAとNBAドラフトで2チームから1位指名を受けましたが、そのチームとは契約をせずABAのデンバー・ナゲッツを契約を結びました。

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圧倒的な新人シーズン~多くの問題によるトレード

彼はプロとしてのキャリアをNBAではなくABAでスタートさせ、彼は1年目からその身体能力と得点能力を活かして活躍しました。83試合に出場し平均26.0得点3.7アシスト6.3リバウンド1.6スティール1.2ブロックを記録したトンプソンは「ダンクの父」と呼ばれたジュリアス・アービングとABAオールスターゲームのスラムダンクコンテストで競い合い、負けはしたもののオールスターゲームのMVPに選出されました。当然のように新人王を受賞しましたが、このときNBAで新人王を受賞したアルバン・アダムズがトンプソンにABAに行ってくれてありがとうと感謝をしたことが語り継がれるほどトンプソンは大きな衝撃を残しました。

トンプソンはABAとNBAが合併して現在のNBAになった1976年から4年間連続でナゲッツからオールスターに選出され、確実にスーパースターとしての地位を得ていました。しかしこの期間に彼のキャリアは少しずつ歯車がずれていくことになります。

まず1977~1978シーズン、トンプソンは5年契約をナゲッツと結び、このシーズンの4月のピストンズ戦で73得点を取りこの年の得点王に輝くなど順調な新契約のスタートを切りました。

しかしながら、契約を結んでからの3年目シーズンの1979~1980シーズンに足のケガが原因で31試合の欠場することになりました。それでも翌年のシーズンでは77試合に出場し平均25.5得点を残し、スター選手として奮闘していました。しかしその奮闘の中でかかるプレッシャーから逃れるために新人シーズンの時から使用していた薬物とアルコール依存、そして度重なるケガの影響が一気に出たかのようにトンプソンのパフォーマンスは落ち、1981~1982シーズンには平均得点が14.9まで下がってしまいました。そして薬物とアルコール、そしてケガと多くの問題を抱えるトンプソンをチームに残すことをためらったナゲッツは彼をスーパーソニックスにトレードしました。

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トレード後のトンプソン~薬物に縛られたキャリア

スーパーソニックスにトレードされた1年目の1982~1983シーズン、スーパースターとしての自分を失ったトンプソンはプレッシャーが減りついに薬物からの脱却を図り始めました。この年は平均得点を少し回復させ、15.9得点を残し4年ぶりのオールスターに選出されました。そうして復活の兆しを見せたトンプソンでしたが1983~1984シーズン、マンハッタンのクラブで泥酔した彼は階段から転落し左膝に大ケガを負いこのシーズン限りリーグに帰ってくることはできませんでした。

そして30歳を迎える前の元スーパースターは引退を余儀なくされ、ホーネッツの地域部門の部長に就任しましたがやはりここでも薬物が問題となり解雇され、彼のキャリアは薬物に振り回され続けたものでした。

まとめ

いかがだったでしょうか。トンプソンは薬物やアルコール依存さえなければ本当にジョーダンに並ぶレベルの選手になる可能性を秘めていた選手だったと思います。現在の彼はキリスト教信者となり薬物を完全に絶って、2003年にノースカロライナ州立大学に戻って社会学の学位を取得して社会に復帰しています。バスケットボールを薬物などで乱したことによって殿堂入りをすることができないだろうと思いますが、もっと多くの方に知ってほしい選手の1人です。

このブログではNBAの歴代選手や歴代チームについて紹介しています。NBAやバスケに興味がある方は是非引き続きお読みいただけると嬉しいです!