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【選手紹介】キラークロスオーバーの生みの親:ティム・ハーダウェイ

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別タイプのクロスオーバーでリーグを席巻した選手

「キラークロスオーバー」と聞けば多くの方がアレン・アイバーソンを思い浮かべると思います。アイバーソンのクロスオーバーは緩急と左右への振りが激しくかなり派手な見た目をしているクロスオーバーですが、今回紹介するティム・ハーダウェイはまた違ったキラークロスオーバーを使っていました。低いドリブルでいきなりスピードに乗って相手を抜き去るそのドリブルは「わかっていても止められない」技の代名詞です。今回はそんなクロスオーバーを武器にNBAで戦ったティム・ハーダウェイのキャリアについて紹介していきます。

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大学時代~Run TMC

テキサス大学エルパソ校(UTEP)でプレーしたハーダウェイはドン・ハスキンズHCのもとでプレーし、1987年と1988年、Sun Bowl InvitationalのMVPを受賞しました。そして大学最終年となった1989年、183㎝以下ながらベストプレイヤーとしてネイスミス賞を受賞しました。そして大学在学中に彼の武器になるキラークロスオーバーを支える技術となる「Utep two step」を習得しました。

1989年ハーダウェイは全体14位でウォリアーズにドラフトされました。ハーダウェイ、ミッチ・リッチモンド、クリス・マリンの3人を中心に速攻が頻繁にみられたこのトリオはRun-TMCと呼ばれるようになり、ハーダウェイは3人の中でパスと1on1でチームに貢献していました。そして2年目の1990~1991シーズンに初めてのプレイオフ出場を果たしました。彼らは7位シードながら2位シードのスパーズを1回戦でスウィープし2回戦に進みましたが、3位のレイカーズに経験の差を見せつけられ、第5戦でプレイオフから姿を消しました。このレイカーズとのシリーズ、ハーダウェイは26.8得点12.8アシスト3.8スティールを平均し、一躍スター選手と見られるようになりました。

翌シーズン、ハーダウェイは平均得点を伸ばしキャリアハイの平均23.4得点を記録しました。この年もプレイオフに進出しましたが1回戦でスーパーソニックスに負けてシーズンを終えました。その翌年はハーダウェイが21.5得点10.6アシストを平均しましたがプレイオフに進出することはできず、チームはケガの多いハーダウェイの残留に対して疑問を持つようになりました。

そしてウォリアーズに在籍の間ハーダウェイは3年連続でオールスターに選出され、オスカー・ロバートソンに次ぐ速さで5,000得点2,500アシストを記録しました。ハーダウェイは1995~1996シーズンの途中までウォリアーズでプレーしましたがヒートにトレードされ、ここから彼のキャリアの第2章が始まりました。

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ヒート時代~引退

シーズン途中でトレードされたハーダウェイは28試合をヒートでプレーしました。28試合で平均17.2得点10アシストを記録しチームもプレイオフに8位で何とか進出しましたが、この年は当時の歴代最高勝利数の72勝を残したブルズと対戦し、スウィープで敗退しました。そしてその次のシーズン、ハーダウェイは20.3得点8.6アシストを平均し、3PT成功数でも203本とリーグ4位につけたハーダウェイを中心に4位でプレイオフに進出したヒートはマジック、ニックスを倒し、カンファレンス・ファイナルに進みましたが、またしてもブルズとの対戦となり、第5戦で敗れることになりました。

1997~1998シーズン、ハーダウェイは18.9得点8.3アシストを平均しオールスターに選出されました。そしてプレイオフにも出場しましたが、1回戦でニックスに負け、次のシーズンも1位でシーズンを終えたにもかかわらず、8位のニックスに負けてしまいました。

1999~2000シーズン、ハーダウェイはこの年からいきなりパフォーマンスが落ちわずか52試合のみのプレーに制限されました。52試合の中で彼は平均13.4得点7.4アシストまで記録が落ちましたが、チームのアロンゾ・モーニングとジャマール・マッシュバーンがオフェンス面で活躍しハーダウェイの穴を埋め、プレイオフに進出することができました。しかし、プレイオフでもハーダウェイの出場制限が続きチームはピストンズを破りましたが、2回戦でまたしてもニックスに敗れる結果となりました。

翌年、オフにモーニングとハーダウェイはオリンピック金メダルを獲得しました。しかしその後にモーニングの腎臓の病気が明らかになり、手術でシーズン最終13試合まで欠場になりました。しかし今回はハーダウェイのオフェンス面での復調があり、50勝で東3位でプレイオフに出場しましたが、1回戦でホーネッツにスウィープされました。

そしてこの年以降ハーダウェイは年齢により明らかにパフォーマンスが落ち、マーベリックス、ナゲッツ、ペイサーズと3つのチームを渡り歩き、2003年ペイサーズでの合計14試合のプレーを最後にNBAから引退しました。

まとめ

いかがだったでしょうか。ハーダウェイは若手のころから活躍していた選手で将来を約束されたような選手だったのでケガやリーグの環境によって優勝を妨げられたのは残念です。彼の息子のティム・ハーダウェイ Jrにはマーベリックスでルカとぜひとも優勝をつかんでほしいと思います。

このブログではNBAの分析や考察をしています。NBAやバスケに興味がある方は是非引き続きお読みいただけると嬉しいです!