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【選手紹介】ニューヨークのレジェンド:パトリック・ユーイング(1/2)

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ニューヨーク・ニックスで最も偉大な選手

近代NBAでニックスの偉大な選手と言えば、まず出てくるのがカーメロ・アンソニーもっと最近だと低迷していたチームを救ったジュリアス・ランドルもその中に入るかもしれません。ニックスは「世界でもっとも有名なアリーナ:マディソン・スクエア・ガーデン」を持つバスケのメッカということもあり、偉大な選手を数多く輩出しています。その中でも神様・マイケル・ジョーダンの時代にブルズと真っ向勝負をしたレジェンドのパトリック・ユーイングはニックスで最も偉大なニックスの選手でしょう。ジョーダンに優勝を阻まれ、彼のすごさを語るときの当て馬として紹介されることの多い彼ですが個人としても優秀な選手でした。今回はニックスのレジェンドのユーイングのキャリアの学生時代からニックス時代の前半までを紹介していきます。

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学生時代~ルーキーシーズン

高校時代に当時のジョージタウン大学HCのジョン・トンプソンにスカウトされ、ユーイングは自身の進学先を公表しました。ボストンのある一室でその発表をした際にはボストンの大学でプレーすることが予想されており、ボストンの住民たちが密集した部屋は発表の瞬間にどよめき多くの人が部屋を去っていきました。ノースカロライナ大学のディーン・スミス氏にもスカウトを受けていたユーイングでしたが面会の際にKKKに面会を妨害され、ユーイングはノースカロライナ大学への進学を諦め、ほかにもUCLAやビラノバ大学からも勧誘を受けていたユーイングですが、ジョージタウン大学へ進学しました。

1981~1982シーズン、新人としてユーイングはいきなりスターとして活躍しチームを史上初のNCAAトーナメントで東地区1位シードに導きました。トーナメントでは1943年以来のファイナル4まで進出しルイビル大学を50-46で倒し、ノースカロライナ大学との決勝に挑みましたが、そこで後にNBAでもライバルとなるジョーダンに惜しくも敗れました。

翌年、ユーイングはバージニア大学のスーパースターのラルフ・サンプソンの上からダンクを決め、支配的なビッグマンとしての地位を確立しました。NCAAトーナメントにも再び出場しましたが、2回戦でメンフィス州立大学に敗れました。

1983~1984シーズン、ユーイングはチームをBig EastのレギュラーシーズンとNCAAトーナメントの両方で地区の1位シードに導きました。Big Eastの最優秀選手にも選ばれた彼はファイナル4に進みケンタッキー大学との対戦に挑みました。サム・ボーウィーとメルビン・ターピンのツインタワーを擁し準決勝無敗のケンタッキー大学を辛くも破り決勝に進出しました。決勝戦はアキーム・オラジュワンのいるヒューストン大学との試合でしたが、84-75でユーイングとチームは勝利し、大学に初めてのNCAAトーナメント優勝をもたらしました。優勝の立役者だったユーイングはトーナメントの最優秀選手にも選ばれ、より大学での存在感を強めました。

大学の3年生シーズン、ユーイングは2年連続でBig Eastの最優秀選手になり、NCAAトーナメントにまたしても東地区の1位シードとして出場しました。ファイナル4まで安定して進出し、準決勝戦を難なく突破し、ビラノバ大学との66-64の接戦を制し、トーナメント2連覇を達成しました。ビッグマンとして圧倒的な活躍を残したユーイングはネイスミス賞を受賞し、Associated Pressの年間最優秀選手に輝きました。

大学最終年、NCAAでは準優勝に終わりましたが、またしても地区を制し、地区の最優秀守備選手賞とオールアメリカン1stチーム選出を受けました。大学で数々の功績を残したユーイングはそのディフェンス力を買われて、当時低迷しておりスター選手を求めていたニックスにドラフトされました。

1985年のNBAドラフトでは初めてのロッタリーシステムが導入されましたが、このシステムでニックスはユーイングをドラフトしました。ユーイングのルーキーシーズンはケガにより順調とは言い難いものでしたが、20得点9リバウンド2ブロックを記録した彼は新人王とオールルーキー1stチーム選出を受けいきなりオールスターにも選ばれました。ユーイングはリーグに入ってすぐにリーグ屈指のセンターとして見られるようになり、ニックスの未来は完全にユーイングの成長にかかっていました。しかし2年目を終えるまではプレイオフに出場することができず、3年目の1987~1988シーズンに初めて出場したプレイオフではセルティックスに1勝3敗で敗れました(当時のプレイオフ1回戦はは3勝先取制)。

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1992年のチャンス~20年ぶりのNBAファイナル

その後もプレイオフで成功を収めることができなかったユーイングとニックスでしたが、チャンスは1992年のプレイオフに訪れました。カンファレンス・セミファイナルに進出したニックスはジョーダンのブルズと対戦しました。ユーイングは第1戦で止められない選手として活躍し34得点16リバウンド6ブロックで勝利をつかみ勢いに乗っていましたが、ユーイングは足首のケガにより出場制限を設けられていました。最終第7戦では27得点でチームを牽引しましたが、81-110で敗れブルズを倒す最大のチャンスを逃しました。

翌シーズン、ニックスは60勝22敗と東の1位シードでプレイオフに進出し、ブルズとの再戦となったカンファレンス・ファイナルでは最初の2戦を取り、非常に順調な滑り出しでした。しかし、4連敗でブルズに敗れ、ファンの期待を大きく裏切る形でニックスとユーイングは敗れてしまいました。この年のファイナルでは62勝20敗を記録したサンズがブルズと対戦しましたが、レギュラーシーズンでニックスはサンズと互角の勝負をしていたため、もしニックスがファイナルに進んでいれば優勝の可能性もあったシリーズとなりました。

1993~1994シーズン、ジョーダンが1度目の引退をしたため世間ではついにニックスの優勝するときが来たという雰囲気が漂っていました。ユーイングもこのチャンスを逃すまいとするかのように、24.5得点11.2リバウンド2.7ブロック1.1スティールと奮闘し、ました。チームはカンファレンス・セミファイナルでついに因縁のブルズを倒すとカンファレンス・ファイナルではレジー・ミラーのペイサーズを激闘の第7戦の末に倒し1073年以来20年ぶりのファイナル進出を果たしました。決勝ではオラジュワンとの最強センター同士の戦いが実現しました。ユーイングがFG36.3%で18.9得点12.4リバウンド4.3ブロック1.3スティールを平均したのに対し、オラジュワンはFG50.0%で平均26.9得点9.1リバウンド3.9ブロック1.6スティールと完全にユーイングをスコアリングで上回るパフォーマンスを見せ、第7戦の激戦を制しました。そしてユーイングにとっての初ファイナルは悔しい敗退で終わりました。

まとめ

いかがだったでしょうか。ユーイングは初めてのファイナルにたどり着いた時点で31歳になっており、このファイナルが彼のキャリアに優勝を与える最大のチャンスでした。ジョーダンやオラジュワンがいない時代にプレーしていれば間違いなく1回は優勝できていたであろうユーイングですが、彼のキャリア後半はどのようになっていくのでしょうか。

このブログではNBAの分析や考察をしています。NBAやバスケに興味がある方は是非引き続きお読みいただけると嬉しいです!