【選手紹介】スパーズ史上最高のシックスマン:マヌ・ジノビリ
スパーズの王朝時代を陰から支えたシックスマン
パーカー、ダンカン、後半にはレナードなど数々のスーパースターが集まったスパーズ王朝でベンチから出場しチームを支えたジノビリは、よく知られているようにキャリア初期はアルゼンチン出身の白人選手ということもあり、特に期待されていた選手ではありませんでした。しかし、多くのファンの予想を良い方向で裏切って歴史に名を刻むほどの選手として活躍することができたジノビリのキャリアはどのようなものだったのでしょうか。今回は彼のキャリアについて紹介と解説をしていきます。
ヨーロッパ時代~3度の優勝
1995年にアルゼンチンでプロとしてのキャリアをスタートさせたジノビリは、1998~2000の2シーズンの間はイタリアリーグに移籍しそこで活躍しました。1999年に開催されたFIBAカップでもチームの3位入賞に大きく貢献し、この大会がきっかけでスパーズのACだったサム・プレスティに目を付けられることとなりました。1999年のNBAドラフトにエントリーしたジノビリは本人も驚きのドラフト指名を受け全体57位でスパーズに指名を受けました。しかしジノビリはドラフトから2年間はヨーロッパでプレーし、ヨーロッパ最終年ではチームを優勝に導き、セリエAでは2年連続でMVP、ユーロリーグでも1度MVPにも選出されています。
ヨーロッパで十分な活躍を残したジノビリは2002~2003シーズンからスパーズに合流します。ヨーロッパで活躍していた彼ですがNBAではフィジカルが足りないのではないかと彼に対する期待はそれほど高くありませんでした。ジノビリはこの年ケガに悩まされることとなりましたが、20分のプレーで7.6得点を平均しオールルーキー2ndチームに選出され、チームにはすでにダンカンというスーパースターがいたため1年目にいきなりジノビリは優勝を経験することになりました。
次シーズン、スターターとして定着したジノビリは平均得点を12得点に伸ばし順調に成長を続けていましたが、プレイオフでは第2回戦でシャック&コービーのレイカーズに敗れ2連覇とはなりませんでした。しかしこの年のオフに参加したアテネオリンピックで大活躍して金メダルを獲得したジノビリは今大会での活躍をきっかけにNBAでもスターとして見られるようになっていきました。
2004~2005シーズン、オリンピックの活躍を機に成長したジノビリは16得点を平均するほどの選手に成長し、この年に初のオールスターに選出されました。ジノビリがオールスターに成長したほかに、パーカーもこの年に16得点を平均するまでに成長しており、スパーズのチームとしての強さには磨きがかかっていました。プレイオフではナッシュ率いるサンズを破りそのままの勢いで2連覇を狙うピストンズをファイナルで倒し2度目の優勝を成し遂げました。このシリーズで大活躍したジノビリはファイナルMVPこそダンカンに奪われましたが、多くのメディアやスパーズの監督陣も「ジノビリがMVPでもおかしくなかった」と言わしめるほどの実力を発揮しました。
2005~2006シーズンには右足にかかわるケガを3度も経験し、長い間欠場が続きますが、チームはその間も安定して勝利を重ね63勝を記録してプレイオフに進出しました。しかし第2回戦ではマーベリックスに敗れこの年はジノビリにとって不完全燃焼かつ悔しい年になりました。そしてこの年のオフにジノビリはBIG3ではボールの取り合いになると判断し、自分からベンチから活躍することを提案しシックスマンに転向しました。
シックスマンとしての初めてのシーズン、個人技が得意だったジノビリはベンチから得点を求められる存在になったことで自分のやりたいプレーをやることができるようになり、ベンチ選手ながら16.5得点を平均するまで成績を伸ばし、シックスマン投票では2位になるほどまでに活躍しました。プレイオフでもその活躍は続き、スパーズは王座奪還でき、ジノビリは3度目の優勝を達成しました。
シックスマンとしての栄光~遠ざかる優勝
次シーズン、ジノビリは2年目のシックスマンということで役割にもより慣れたことでリズムがつかめるようになったのかさらに平均得点を伸ばし、19.5得点とダンカンを越してチームハイの平均得点を残しました。この年にジノビリはシックスマンとしての圧倒的な活躍が評価されシックスマン賞を受賞しています。しかしプレーオフでは1回戦でのケガが影響し思ったようなプレーができずファイナルでレイカーズ相手に敗退することになりました。
2008~2009シーズン、プレイオフでのけがをオリンピックで悪化させたジノビリは手術やさらなるケガに悩まされ、出場試合数が44試合にまで落ち込みました。チームもプレーオフ1回戦での敗退に終わり、ジノビリの存在がチームにとってどれほど大切か感じさせられるシーズンになりました。
2009~2010シーズントニーパーカーがケガによって離脱していたこともありスターターに復帰しますが、平均アシストが4.9本に増えた以外の変化は特になく、スパーズはプレイオフ2回戦でサンズ相手にスウィープ負けを喫しました。
2010~2011シーズン、ダンカンの衰えが見え始めたことでジノビリはスターターに復帰し17.4得点4.9アシストを平均し最後のオールスター出場を果たしました。チームもカンファレンス1位の成績でプレーオフに進出しましたが、ジノビリは右肘を負傷しチームは1位ながら8位のグリズリーズに屈辱的な敗北をしました。
次シーズンもジノビリはケガに悩まされるシーズンを送り出場試合数も36試合にとどまりました。このシーズンはNBAがロックアウトにより短縮シーズンを設けたシーズンであり、短いシーズンでしたが、ジノビリのFG%と3PT%ともにキャリアハイを記録しました。
2012~2013シーズンには年齢的な衰えが見え始め、ジノビリのスタッツは落ち始めました(11.8得点)。このシーズン限りでの引退を考えていたジノビリでしたが、優勝を求めてスパーズとオフに2年の延長契約を結びました。
延長契約をした翌年の2013~2014シーズンにジノビリはスタッツを少し伸ばし(12.3得点)、シックスマン投票では3位に入る活躍でチームに貢献しました。プレーオフ進出を果たし、宿敵ヒートとファイナルで対戦しました。第1戦でジノビリは16得点11アシスト3スティールを記録し史上初のベンチ出場ながらファイナルで15得点10アシスト以上を記録するなど、このファイナルで継続して活躍しリベンジを果たし7年ぶり4度目の優勝を達成しました。
この優勝の後はジノビリは衰えからパフォーマンスが大きく低下し、チームもパーカーとジノビリの2人が高齢化したことで優勝からは遠ざかることになりました。ジノビリは何度か引退を考え、そのたびに現役続行をするという決断をしてきましたが、2018年オフについに引退を表明しました。
まとめ
いかがだったでしょうか。ジノビリはスーパースターとしての栄光をつかむ才能があったにもかかわらず、チームの勝利を優先しその結果個人としてもシックスマン賞を受賞したり4度の優勝を成し遂げたりと歴史に名前を刻む選手になりました。彼の独創的なプレースタイルはのちのNBAにも影響しており、代名詞のユーロステップはハーデンやウェストブルックなど現代のスターたちが使う技になるまで浸透しました。彼の独創的なパスやステップには今見ても驚きを隠せないようなものが多くありますので是非ハイライトだけでも見てみてはどうでしょうか。