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【チーム紹介】泥臭いプレーで一つの時代を築いたチーム:メンフィス・グリズリーズ

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伝統的なバスケットボールを貫いた歴史的なチーム

2010年代が進むにつれ、3PTを多投するスタイルが標準となっていく中で、インサイド中心にゴリゴリの2000年代かそれ以前のようなバスケットをし続けたチームがありました。そのチームとはメンフィス・グリズリーズであり、その中心にいた選手たちは少なくともグリズリーズの歴史に名を刻んだ選手たちでした。マーク・ガソル、ザック・ランドルフ、トニー・アレン、マイク・コンリー、ルディ・ゲイなどの優秀な選手が数多く揃ったグリズリーズは「Grit and Grind」という合言葉と共にアウトサイド主体の時代まで駆け抜けました。今回はそんなグリズリーズの1つの黄金時代について紹介していきます。

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チームの成長期~守護神の栄冠

2009~2010シーズンにオールスターレベルの選手だったランドルフを獲得し、ガソルが選手として大きく成長したことでプレイオフ進出は逃しましたが、ようやくチームの再建にも終わりが見えたグリズリーズは翌シーズンから優勝を目指すためのチーム作りを進めていきました。

そして迎えた2010~2011シーズン、メンフィスにチームが移転してから10周年となったこの年、グリズリーズはランドルフの獲得によってガソルのインサイドでの負担を減らすことができただけではなく、インサイドを強みとして戦うことができるチームに変わっていきました。また、この年は昨年ボールを独占していたアイバーソンが退団し他の才能ある選手たちのボールタッチが増えたことで、チーム全体としてオフェンスの効率が改善されていました。レギュラーシーズンを46勝36敗で終えた彼らは8位シードとしてプレイオフに進出することができましたが、2回戦のOKCサンダー戦で敗れました。若手ばかりが集まるサンダーに敗れてしまったグリズリーズでしたが、2回戦に進むための1スパーズとの対戦では史上4チーム目の1位シードを倒した8位シードチームとなり、オフにはガソルを再契約することができました。

若い才能が集まるサンダーに敗れてしまったもののペイント内で圧倒的な強さを誇り、ボールに徹底的にプレッシャーをかける「Grit and Grind」は確実な強さを見せつけて短縮されたシーズンを41勝25敗でで突破し2年連続のプレイオフ進出を果たしました。しかしこの年は同じくインサイドで圧倒的な強さを誇っていたクリッパーズにプレイオフ1回戦の第7戦で敗れてしまいました。

2012~2013シーズン、グリズリーズは当時世界中で10人の若い億万長者として名声を得ていた人物に売却されたり、多くのロールプレイヤーをトレードしたりと動きが激しいシーズンを過ごしましたが、中心選手たちのパフォーマンスは安定しており、56勝26敗でシーズンを突破しました。このシーズンチームの守備をインサイドで支えて、平均2.3本のオフェンスリバウンドを含む7.8リバウンド1.7ブロック1.0スティールを記録したガソルは最優秀守備選手賞を受賞しました。5位シードとしてプレイオフに出場したグリズリーズはこの年大きく躍進しカンファレンス・ファイナルまで進出することができました。しかしながら経験不足と純粋なチームとしての完成度と総合力の差によってスパーズにスウィープされてしまい、初めてのカンファレンス・ファイナルでは屈辱を味わいました。

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進退を繰り返すチーム~キープレーヤーの移籍・引退、そして再建

2013~2014シーズン、昨年スパーズにスウィープされて敗れてしまいましたが、ガソルは最優秀守備選手賞を受賞して、カンファレンス・ファイナルまで進出できたグリズリーズには大きな期待が寄せられていました。ガソルが欠場していた期間、グリズリーズは実力を発揮することができず14勝18敗に沈み、彼の復帰後もオールスターブレイク時には29勝23敗と微妙な結果のままシーズン中盤を迎えました。しかしがゾルが復帰して時間が経ったことで調子を取り戻したチームは残りの試合を21勝9敗で勝ち抜き、50勝32敗の3位シードとしてプレイオフに進出しました。この年、シーズンMVPを受賞したKD擁するサンダーと一回戦で対戦し、激闘を繰り広げましたが第7戦でまたしても敗れグリズリーズはプレイオフから姿を消しました。

レギュラーシーズンでは結果を残すことができていましたがプレイオフではなぜかうまくいっていなかったグリズリーズの中心選手、特にガソルとランドルフはこの頃には高齢選手の域に入り始めておりグリスリーズに残されたチャンスは少なくなりました。チームとして優勝を目指すためには何かを変えなければならないという声もありましたがすでに長い期間をかけて作り上げたチームだったことでチームを大きく変えることができなかったグリズリーズは2014~2015シーズンも同じ体制でプレイオフに出場しましたが、ここで時代を大きく変えたウォリアーズと対戦し、2勝4敗で敗れました。

2015~2016シーズン、42勝40敗とギリギリでプレイオフに進出したグリズリーズでしたが、1回戦でスパーズにスウィープされました。オフにランドルフが移籍し、アレンが引退したことで完全に「Grit and Grind」の時代は終わりを迎え、その後もコンリーとガソルのコンビで勝利を目指しましたがうまくいくことはなく、2018~2019シーズンにガソルをトレードで放出したことをきっかけにグリズリーズは完全に再建に踏み切ることになりました。

まとめ

いかがだったでしょうか。グリズリーズはインサイド中心のバスケットで安定した強さを誇り1時代を築いた強豪チームの1角でした。しかし、プレイオフでは勝ち進むことができず、それなのにチームの変革や補強に動くことができなかったことで融資鵜を成し遂げることができなかった残念なチームです。しかし、効率重視のアウトサイド中心のバスケットが主体のNBAでインサイド主体の昔ながらのバスケットを貫いたグリズリーズは確実に歴史にとって大切なチームであり、だからこそ今でも語り継がれているのだと思います。

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【選手紹介】神様に敗れた「空飛ぶ冷蔵庫」:チャールズ・バークレー(2/3)

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時代最強PFの全盛期と勝てないチーム

前回の記事では、素晴らしい大学キャリアと上出来なルーキーシーズンから完全にチームの中心になった3年目シーズンまでについて紹介しました。3年目シーズンではバークレーは身長が低いPFながら史上でもトップ10に入るようなリバウンドシーズンを過ごしましたが、チームの成功をつかむことができませんでした。今回の記事では、フランチャイズプレーヤーとしてチームを任せられたシーズンからサンズでの1年目までについて紹介していきます。

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アービングの引退~プレイオフで結果を出せない時期

1987~1988シーズン、チームを長年支えたアービングが引退を発表したことでそれまで実力ではチームの1番手とながら精神的な面では2番手の選手としてプレーしていたバークレーは完全にチームのリーダー、そしてフランチャイズプレーヤーとして大きな責任を負うことになりました。普通ならプレッシャーに押しつぶされてパフォーマンスが学っと落ちてもおかしくないですが、バークレーはパフォーマンスを落とすどころかよりプレーの質を高めました。このシーズンバークレーはFG58.7%で平均28.3得点3.2アシスト11.9リバウンド1.3スティール1.3ブロックを記録し、初のオールNBA1stチーム選出を受けました。しかしチームにはアービングを失った穴が大きく空いており、他の選手ではそれを埋めることができず、この年のシクサーズはリーグで最強のPFとして評価されたバークレーを擁しながらもプレイオフ進出を逃しました。

翌シーズンも同じような活躍を残し、平均25.8得点4.1アシスト12.5リバウンド1.6スティール0.9ブロックを記録し、2年連続でオールNBA1stチームに選出されました。さすがにバークレーを満足させるためにプレイオフに進出できるようなチームを用意したシクサーズでしたが、彼の平均FG64.4%27.0得点5.3アシスト11.7リバウンド1.7スティール0.7リバウンドもむなしく1回戦でニックスにスウィープされ敗退しました。

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MVP級選手としての評価~神様に阻まれ続けた期間

1989~1990シーズン、さすがにチームのフランチャイズプレーヤーとしてファンに愛されていたといっても、自分がどれだけ活躍しても勝つことができないチームにバークレーは苛立ちを隠せない状況になっていました。バークレーはそのフラストレーションをインタビューやフロントへのコメントという形ではなく、プレーのための原動力に変えることができました。このシーズン彼は受賞は逃しましたがMVP投票では5つの1位票を得て、マジックに次ぐ2位になるまでの活躍を残しました。この年も彼はオールNBA1stチームに選出されましたが、この頃にはすでに彼はこの選出に何かを感じることは無くなっており彼が求めていたものは完全に優勝のみでした。彼はシクサーズをチームを53勝まで導いてチームを1人の力でプレイオフに引っ張っていきカンファレンス・ファイナルまで進出しましたが、同期のジョーダン率いるブルズに5戦で敗退し始めてプレイオフでジョーダンという壁に道を阻まれました。

翌年、オールスターゲームに出場した彼は1967年のウィルトが残した22リバウンドの記録に並ぶ記録を残し、イーストチームを勝利に導きました。この年彼はオールスターゲームでの活躍が評価され最初で最後のオールスターMVPを受賞しました。このシーズンスパーズのデビッド・ロビンソンがニューヨークタイムズの取材でジョーダンとバークレーどちらを取るかという質問に対して「自分はバークレーを取る。プレーしているときのインパクトが彼より大きい選手はいない。」とバークレーを賞賛しました。しかしプレイオフでまたしてもブルズと対戦したバークレーはシリーズ平均25.6得点5.4アシスト10.2リバウンド1.4スティールを記録しスーパースターとして活躍しましたが、ジョーダンがそれを上回る平均33.4得点7.8アシスト8.0リバウンド1.8スティール1.4ブロックを記録し、選手としての格の違いを見せつけられて敗北しました。

そしてシクサーズでプレーした最後の年となった1991~1992シーズン、シーズン開幕前にHIVを理由に引退を発表したマジックの背番号を引き継いだバークレーは、34番に変わって32番をつけることに決めました。このシクサーズ最後のシーズン、マジックへの思いもあってかトレードを要求するようなモチベーションの選手らしくなくいつも通りのパフォーマンスを残しました。バークレー自身は6年連続のオールスターと3度目のオールNBA2ndチーム選出を受けましたがチームは35勝47敗でプレイオフ出場を逃してシクサーズを去ることになりました。

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古豪への加入と個人的な栄光

シクサーズからトレードされ、古豪のサンズに加入したバークレーはチームに加入していきなりインパクトプレーヤーとして貢献活躍しました。バークレーはサンズでの初めての試合で37得点8アシスト21リバウンドのモンスターパフォーマンスを記録してチームを勝利に導きました。彼はこのシーズン、サンズをリーグトップの62勝20敗に導き、自身は平均25.6得点5.1アシスト12.2リバウンドを記録して初のMVPを受賞しました。レギュラーシーズンにMVPを受賞したバークレーは加入したばかりのチームをリーグトップの成績に導いただけではなく、プレイオフでもNBAファイナルまで引っ張っていきました。バークレーはプレイオフでも活躍し続け、平均26.6得点4.3アシスト13.6リバウンドを記録しました。しかしこのファイナルでも運命のようにバークレーはジョーダンのブルズと対戦することになり6戦であえなく敗退してしまいました。

まとめ

いかがだったでしょうか。バークレーはシクサーズでのシーズンとサンズでの1年目を終えた時点でリバウンド王、オールスター、オールNBAチーム選出、MVPと多くの賞や選出を受け、個人として多くのことを達成しました。しかしながらそれでも周りの環境や時代の流れに恵まれずこの時点でも優勝を成し遂げることができませんでした。この後も何度か優勝チャンスに恵まれますがやはり先ほどの理由や衰えのせいで最後まで優勝することができませんでした。

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【選手紹介】神様に敗れた「空飛ぶ冷蔵庫」:チャールズ・バークレー(1/3)

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プレーした時期に恵まれなかった史上トップ5に入るPF

200㎝越えの選手ばかりのNBAの世界でも特に巨人たちがひしめき合っているインサイドの選手たちは2010年代前半までは210㎝前後の身長は当たり前でした。その中でも198㎝と小柄ながら史上最高のPFの1人として数えられるほどの選手として活躍したチャールズ・バークレーはその身体能力の高さやフィジカルの強さを活かしたプレーで空中戦を支配し、「空飛ぶ冷蔵庫」と呼ばれました。しかしそれほどまで圧倒的で優秀な選手だった彼はキャリアに優勝の2文字がありません。今回はそんなバークレーのキャリア序盤について紹介していきます。

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大学時代~1984年NBAドラフト

高校最終年に急激に身長が193㎝まで伸び十分なプレータイムを得られるようになったバークレーはこの年に19.1得点17.9リバウンドを平均しており、後の進学先となるオーバーン大学の当時のHCの補佐役をしていたソニー・スミスに目を付けられました。スミスのスカウトに応じてオーバーンに進学した彼はセンターとして起用されました。

彼は大学時代に体重の制御をすることに苦戦していましたが、その苦戦が彼の身体能力と良い形でマッチし彼はインサイドで押し負けない身体で周りよりも高い身体能力を持つ選手として活躍できました。彼は3年間大学でプレーしましたが、その3年間で数多くの実績を残していきました。彼はオーバーン大学の歴代選抜チームに選出され、大学通算FG%の62.6%は大学歴代最高数値です。1984年にはSEC(南東地区)の最優秀選手になり、3年間連続でオールSECと1度のオールアメリカン2ndチームに選出されました。バークレーの大学通算スタッツは14.1得点9.6リバウンド1.7ブロックで、最も印象的なパフォーマンスは1984年のNCAAトーナメント予選最終戦で見ることができました。この試合彼は、FG80%で23得点17リバウンド4アシスト2スティール2ブロックを記録しました。

このように数々の圧倒的な記録や実績を残したバークレーは、後に史上最高のドラフトクラスの1つとして数えられることとなる1984年NBAドラフトにエントリーしました。

普通であれば1位指名を受けるような選手だったバークレーですが、先に言ったようにこの年は史上最高クラスのドラフトクラスだったため全体5位指名まで指名順位が落ちましたが、彼はこの悔しさを力に変えてこの先16年の長いキャリアを送っていくことになります。

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そこそこの滑り出し~驚異の3年目シーズン

ジュリアス・アービング、モーゼス・マローン、モーリス・チークスといった歴史に名を刻むようなベテラン選手が中心選手として所属する昨年チャンピオンのシクサーズにドラフトされた彼はルーキーシーズン82試合すべてに出場しそのうち60試合でスタメンとしてプレーしました。若い才能としてチームの未来のエースになると期待されたバークレーは、1年目から十分なプレータイムを得ることができ、平均14.0得点8.6リバウンド1.2スティール1.0ブロックを記録してオールルーキーチームに選出されました。プレイオフにもいきなり出場でき、カンファレンス・ファイナルでセルティックスに敗れてしまいましたが、1年目選手としては上々のプレイオフ平均14.9得点11.1リバウンド1.8スティール1.2ブロックを記録してルーキーシーズンを終えました。

2年目シーズン、オフシーズンにマローンのリーダーシップに導かれて選手として大きく成長した彼は平均20.0得点12.8リバウンドを記録し、チーム1のリバウンダー・チーム2番目のスコアラーとして完全にチームの核として使われるようになりました。昨年のプレイオフでは経験の少なさからかスターターとしてプレーする機会が少なかったバークレーはこの年には完全にチームの信頼を得ており、スターターとしてすべての試合に出場しプレイオフ平均25.0得点15.8リバウンド5.6アシスト2.3スティール1.3ブロックとスーパースター並みの数字を記録しました。バークレーの成長は著しかったのですが、アービング、マローン、チークスなどの他の選手たちの衰えがあったことでチームは2回戦でバックス戦で敗れてしまいました。

3年目の1986~1987シーズンの開幕前に衰えが最も激しかったマローンがブレッツにトレードされたことでバークレーは完全にチームリーダーとしての活躍が期待されるようになりました。その期待に応えるように11月4日の試合では34得点10リバウンド14アシストのトリプルダブルを記録し、3月のナゲッツ戦では驚異の26得点25リバウンド9アシストを記録してチームを勝利に導きました。この年、23.0得点14.6リバウンド4.9アシスト1.8スティール1.5ブロックを平均したバークレーは最初で最後のリバウンド王に輝き、低身長選手でもインサイドプレーヤーとして活躍できるということを2年連続で証明しました。バークレーはリバウンド王を受賞しましたが、単なるリバウンドだけでなく平均オフェンスリバウンド数でもリーグトップに立ち、インサイドプレーヤーとして完璧な貢献をしていました。その貢献がこの年も評価され初めてのオールスターゲームと2年連続のオールNBA2ndチーム選出を受けました。個人として絶対的な選手として君臨していたバークレーでしたが、マローンの抜けた穴は大きく、チームはプレイオフ1回戦でまたしてもバックスに敗れてしまい、自分が頑張っても勝てないチームにバークレーはフラストレーションを感じるようになりました。

まとめ

いかがだったでしょうか。自分が思っているよりも体重が増加してしまい、初めはそれによって悩みを抱えたりキャリアが上手くいかなかったりしたバークレーですが、身長がある程度伸びてからはそれがむしろ強みになっていました。ルーキーシーズンから確実なリバウンド力を見せつけわずか2年のうちにリバウンド王に輝いたバークレーは、その栄光とは裏腹にこれから先のキャリアではなぜか優勝をつかむことができないという問題に悩まされていくことになります。なぜそのようになったのかこれ以降の記事で紹介していきます。

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【選手紹介】史上最悪のケガを乗り越えたNBAチャンピオン:ショーン・リビングストン(2/2)

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ケガを克服し運命のチームに巡り合えた名脇役

前回記事では期待されてリーグに入ってきたころからケガに悩みながらも最後のチャンスをものにしてサポート選手としての地位を確立したリビングストンのキャリア前半について紹介しました。そのあと彼はウォリアーズにピックされ、ベンチを支える選手として王朝ウォリアーズのコアメンバーとして活躍しました。今回は復活を果たしたリビングストンが名脇役として活躍し、NBAチャンピオンになるキャリア後半について紹介していきます。

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運命の契約~3度のチャンピオンシップ

ネッツでの遅いブレイクアウトシーズンを終えたリビングストンはカリーとトンプソンを中心にした強いスタートを支えるベンチメンバーの1人として2014年6月11日に3年契約を結びました。彼は8月に踵の手術を受け、開幕に復帰が間に合うか心配されましたが何とか開幕前に復帰し、78試合出場で平均5.9得点3.3アシスト2.3リバウンドを記録しました。スタッツで見るとキャリア的に沈んでいたころとあまり変わらないようなシーズンですが、このシーズンの彼はベンチからディフェンスとゲームメイクで貢献しており、それはベンチプレーヤーとして使われるようになったからこそ実現できたものでした。このシーズンのプレイオフで彼はベンチから優秀なディフェンダー、そしてオフェンスが上手くいかないときに得意のミッドレンジジャンパーでチームを助ける選手として活躍し、初めての優勝を成し遂げました。

2015~2016シーズンも昨年と同じく78試合に出場しました。この年リビングストンはウォリアーズの効率的なオフェンスシステムに1年経って慣れてきたのか、3PT%が16.7%ながらもFG%では驚異的な53.6%を記録しました。この効率の良さはシーズン中にチームの彼の使い方にも表れたように、リビングストンはウォリアーズのいざという時のスコアリングを任せられることもあり完全にウォリアーズの戦力として使われていました。しかしこの年はNBAファイナルでキャバリアーズのBIG3に敗れ、確実に思われた連覇を逃してしまいました。

2016~2017シーズンからリビングストンは同じように高齢ながら重要なベンチプレーヤーとして活躍し続け、2017年と2018年に連覇を成し遂げたウォリアーズの2ndユニットの中心選手としてチームに貢献しました。そして2019年NBAファイナルで多くのけが人が出たウォリアーズのためにスタメンとして出場しましたが、年齢ゆえの体力や身体能力の衰えが顕著だったため彼はこのシーズン限りでNBAから引退しました。

まとめ

いかがだったでしょうか。彼は選手として2019年プレイオフの後に引退を表明しましたが、同年9月に運営陣の1人としてすぐにウォリアーズに復帰しています。イベントに参加するなど地域に貢献するための活動も頻繁に行っており、リビングストンは実力や実績以上に、一般人に好かれるNBA選手として自身の存在価値を高めています。そしてそれはあのケガから復帰したということと、そこからキャリアを逆転させたというひたむきかつ前向きな姿勢があったからこそだと思います。

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【選手紹介】史上最悪のケガを乗り越えたNBAチャンピオン:ショーン・リビングストン(1/2)

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最悪のケガを乗り越えた最高のロールプレイヤー

YoutubeでNBA史上最悪のケガと調べるとほぼ確実にヒットする膝のケガを負ってしまったショーン・リビングストン。彼は高身長ながら高い身体能力とアシスト能力を持ち合わせており、若いときには「マジック・ジョンソンの再来」と呼ばれるほど期待をされた選手でした。しかしながらその未来は先ほど紹介したケガによって実現することはありませんでした。それでも彼は史上最も感動的な復活を果たして見事にNBAチャンピオンに輝いた選手です。今回は大ケガを乗り越えて栄光をつかんだショーン・リビングストンのキャリアについて紹介していきます。

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才能に溢れた高卒ルーキー~最悪のケガ

高校を卒業したリビングストンは進路を考えるときに初めはデューク大学への進学を考えていました。しかし、大学に進学せずに高卒選手として2004年NBAドラフトにエントリーすることに決めました。彼は全体4位という高順位で、将来にチームを支える若手PGを探していたクリッパーズから指名を受けました。高身長を活かしたプレイメイキングに強みを持っていたリビングストンですが、チームにはサム・キャセールがいたため、リビングストンはSGとしてプレーすることになりました。高卒選手で高身長ということで、大きな負担に耐えることができないと判断したチームは彼の試合数を強く制限し、彼はデビューしてからの2年間で91試合しかプレーすることができませんでした。しかしその2年間で6.3得点4.7アシストを平均していたリビングストンには明らかに高いポテンシャルが見られ、ファンも彼がドラフト前通りのマジック・ジョンソン2.0に成長することを強く望んでおり当時はそれも不可能ではないように思えました。

そして3年目のシーズン、リビングストンは54試合を終えた時点で9.3得点5.1アシスト3.4リバウンドを平均しており、いずれのスタッツでもキャリアハイを記録していました。しかし残念なことにこのブレイクアウトシーズンの途中に彼をどん底まで突き落とすほどのケガが起こってしまいました。それはレイアップをした後の着地の際に彼の膝があらぬ方向に曲がってしまい、ACL,LCL,MCLという膝の靭帯をすべて断裂、もしくは損傷してしまうといったものでした。このケガによって彼は残りのシーズンと翌年も全休することになり、復帰する頃にはクリッパーズとの契約を切れておりこのあと彼はNBA下部のリーグを含めた数々のチームを渡り歩くことになりました。

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復帰を目指す日々~サポート選手としての自己の確立

2007年に膝の大けがを負ってしまったリビングストンは復帰を目指してリハビリに取り組んでいましたが彼が復帰できるほどに回復したころにはクリッパーズとの契約が既に切れていました。いくらポテンシャルが高いといっても膝の靭帯すべてを損傷した選手にクリッパーズは新しい契約を渡すことはなく、2008~2009シーズンにリビングストンは次のチームとしてヒートと契約をしました。やっと安心できる状況になった彼でしたが、わずか4試合のみのプレーでグリズリーズにトレードされ、そこでは1試合もプレーさせてもらえずに解雇されてしまいました。すでにクリッパーズ、ヒート、グリズリーズと3つのチームに見放されたリビングストンでしたが、彼は復帰を諦めずにOKCサンダーの下部チームと契約をし3週間後の3月末にはサンダーとの本契約までこぎつけました。しかし膝のケガによって全開のプレーを無意識にできなくなっていたのか彼はサンダーが期待していたほどの結果を残すことができず、リビングストンは2009年12月下旬にサンダーからも解雇されてしまいました。

2009~2010シーズンの2月下旬に、ウィザーズと10日間契約を結び、本契約をもらったリビングストンでしたが、再契約をもらえるほどの活躍を残すことができず、そうシーズンの6月にはボブキャッツ(現ホーネッツ)と2年契約を結びました。弱小チームのボブキャッツで心機一転活躍することが期待されていたリビングストンでしたが平均6.6得点2.2アシスト2.0リバウンドという微妙な結果に終わり、彼は7月下旬にバックスへトレードされました。バックスでは58試合に出場しましたがやはりここでも期待されるような選手として爆発することができず、この頃には年齢も高くなっていた彼はすでに「終わった選手」として扱われるようになっていました。

このあとロケッツ、ウィザーズ、キャバリアーズと5年間で合計8チームをたらい回しにされた彼は最後のチャンスとして、ブルックリン・ネッツでデロン・ウィリアムスのバックコートメート(初めはただの控えPG)としてプレイするチャンスを得ました。最初は期待されていませんでしたがそのプレッシャーのなさが彼の精神的な負担を和らげたのか、彼はこの年ディフェンス面で活躍しチームで3番目にチームに貢献したディフェンダーとして評価されました。また、彼の強みでもあるアシスト能力とミッドレンジジャンパーも効果的に働いており、リビングストンは一気に優秀なサポート選手という評価を得ることができ、翌シーズンの契約を得ることができました。

まとめ

いかがだったでしょうか。リビングストンはドラフト前に期待されるほどの選手になることはできませんでしたし、むしろその逆で最悪のキャリアを送っていた選手でした。しかし彼の復帰への飽くなき意欲と継続的な努力が実を結びネッツでの復活、そして次の記事で紹介するウォリアーズでのキャリア最終期へとつながることになりました。彼の粘り強さや目標への熱意はバスケットボール選手としてではなく、1人の人間として尊敬すべきものであり、是非知ってもらいたい選手です。

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【チーム紹介】奇跡の逆転優勝を果たした2016年の覇者:クリーブランド・キャバリアーズ

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歴代最強チームの一角を破ったチーム

2016年NBAファイナルではレブロン・ジェームズ率いるクリーブランド・キャバリアーズが、史上最高勝利数の73勝を残したウォリアーズ相手にNBA史上初のファイナルでの1勝3敗からの逆転優勝を果たしました。この逆転優勝はNBA史上でも最も記憶に残る瞬間の一つとして、これからも語り継がれるような劇的なものでした。ではこの歴史的な結果を残したキャバリアーズはどのような過程を経て、2016年の優勝を成し遂げたのでしょうか。今回は見事な逆転劇を見せてくれた2016年のキャバリアーズについて紹介していきます。

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運命のドラフト~2015年プレイオフ

2011年のNBAドラフトで1位指名権を持っていたキャバリアーズはデューク大学の出身の大型ルーキーのカイリー・アービングを指名しました。このドラフトがすべての始まりになりますが、この時はそのことを知るすべもなく、カイリーは弱小チームで唯一のスター選手として孤軍奮闘する日々が続きました。

カイリーが孤軍奮闘する中で将来の相棒になるレブロンはヒートで2連覇を達成し、「キング」と呼ばれるにふさわしい実績を残していましたが、彼は「地元のオハイオに優勝をもたらす」というドラフト時に宣言した約束を果たすために2014年7月にキャバリアーズへ復帰しました。そして優勝を狙うならこのチャンスしかないと考えたキャバリアーズは8月下旬のトレードで当時ウルブズでリーグ最強PFとして活躍していたラブを獲得し、この補強でキャバリアーズは一気に優勝候補へ浮上しました。

2014~2015シーズン、レブロン・カイリー・ラブのBIG3を結成して一気に強豪チームの1つとして注目を集めたキャバリアーズでしたが、シーズン前半では19勝20敗を勝率5割を超えない微妙な成績を残してしまいました。期待外れなスタートを切ったキャバリアーズは批判を受けていましたが、シーズンを通して数多くのトレードを行いその結果残りのシーズンを34勝9敗で突破し結果的に53勝29敗でシーズンを終えることができました。2010年ぶりに出場したプレイオフでは1回戦でセルティックスをスウィープし、2回戦も突破しカンファレンス・ファイナルでもホークスをスウィープしてキャバリアーズは選手層通りにファイナルまで進出しました。しかしこの年はMVPを初受賞したカリーと彼を中心としたチームバスケットで戦うウォリアーズに2勝4敗で敗れ優勝を逃してしまいました。

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運命のシーズン~52年ぶりのスポーツ優勝

昨年ウォリアーズに敗れ、リーグ最高のBIG3ともいわれるトリオを組んだキャバリアーズは悔しい敗北を味わいました。そして2015~2016シーズンは彼らにとっても世間にとっても非常に印象深いシーズンになりました。この年キャバリアーズはシーズン開幕からカンファレンスの首位を走り続け、57勝25敗の1位シードとしてプレイオフに進出しました。この年レブロンはいつも通りの安定したパフォーマンスを見せましたが、カイリーは昨年プレイオフで負った膝蓋骨の骨折の復帰に時間がかかり、レギュラーシーズンでは53試合しか出場することができませんでした。それでもキャバリアーズはカンファレンスでは圧倒的な実力を誇っており、2年連続のNBAファイナル出場を決めました。

しかし運が悪いことにこの年のファイナルの相手は王朝ブルズの72勝を超えて歴代最高勝利数の73勝を記録した最強ウォリアーズでした。ウォリアーズカリー・クレイ・ドレイモンドのコアがさらに成長しており、世間はウォリアーズがスウィープで優勝を決めるだろうと思っていました。途中で1敗しましたが、予想通りウォリアーズは3勝1敗で簡単に優勝に王手をかけキャバリアーズを窮地に追い込みました。しかしここで奮起したキャバリアーズは第4戦で復帰したラブが2得点と不調に陥るも、カイリーとレブロンの40点オーバーパフォーマンスで第5戦に勝利し、続く第6戦でもレブロンが41得点11アシスト、カイリーが23得点、TTが15得点16リバウンドとチーム全体でウォリアーズに勝利し予想外の最終第7戦に持ち込みました。キャバリアーズは完全に勢いに乗っていましたが、ここでしりに火が付いたウォリアーズと激戦の最終戦を演じました。キャバリアーズはレブロンが27得点11アシスト11リバウンドのトリプルダブル、カイリーが26得点、ラブが14リバウンドを記録し、最後にはカイリーがゲームウィニング3PTを決め念願の優勝を大逆転優勝という感動的な形で成し遂げました。キャバリアーズのこの優勝はチームにとってだけでなく、オハイオ州にとっても非常に価値あるもので、この優勝によってオハイオは52年ぶりの全プロスポーツでの優勝を達成しました。

まとめ

いかがだったでしょうか。この年のキャバリアーズは最強ウォリアーズを倒したNBAの英雄として語り継がれています。レブロンとカイリーのファイナルでの鬼気迫るパフォーマンスは見ていて鳥肌が立つようなものでしたが、2人を活かすための周りのアジャストメントも素晴らしくキャバリアーズはチームとしてタレント軍団のウォリアーズを破りました。この年のファイナルを見たことがない方は是非第7戦だけでも見ていただきたいと思います。

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【選手紹介】ニューヨークの救世主になるはずだった才能:クリスタプス・ポルジンギス

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ニューヨークに愛されるスーパースターになるはずだった若い才能

ケビン・デュラントに類まれなる才能を見出されて「ユニコーン」というあだ名をつけられたクリスタプス・ポルジンギスはマーベリックスにトレードされ、次世代のナッシュ&ノビツキーだともてはやされていましたが思うような活躍ができていない選手です。最近の悪評判のせいで忘れがちですが、彼は若さと才能を持ち合わせたリーグでも10本の指に入る将来のスター候補です。ケガによってその才能を活かしきれていないポルジンギスですが、今までのキャリアはどのようなものだったのでしょうか。今回はポルジンギスの今までのキャリアについて紹介していきます。

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ヨーロッパのスター~ニューヨークの未来

セルビアで生まれ育ったポルジンギスは親の影響で6歳の頃からバスケットボールをプレーしており、12歳になるころにはプロとしてプレーしていた兄のオフシーズンついていっていました。2010年にポルジンギスは203㎝の身長まで成長し、2012年に彼はACBリーガでプレーするチャンスを得ました。

確かな才能と恵まれた身体をもってプロ入りしたポルジンギスですがプロの世界は甘くなく、この年の彼の最高得点はわずか7得点に終わりました。オフシーズン、練習に励んだ彼は確実に実力を伸ばし、その成果はシーズンが始まってすぐに表れました。彼はシーズン3試合目に20得点を記録してチームを勝利に導きました。この頃には3PTを打てるようになっており別の試合では2本の3PTを含む20得点を挙げました。インサイドでもアウトサイドでも成長著しい結果を残した彼はこのシーズンオールヤングプレーヤーチームに選出され、将来を期待される選手としてヨーロッパで評価されるようになりました。このシーズンを経て自信をつけたポルジンギスは2014年NBAドラフトにエントリーする決心をし、実際OKCサンダーやマジックが彼をドラフトしようとしていましたが、ドラフト数日前に彼はエントリーを諦め、翌年のドラフトでさらなる高順位指名を求めることにしました。

翌年、彼は思うように得点を取ることができず、オフェンス面で苦労するシーズンを過ごしましたが、ある試合では18得点4アシスト7リバウンド4スティール2ブロックを記録しNBAにその万能性と才能を見せつけました。そして彼は2015年ドラフトで予想外の4位指名でニックスに指名されました。しかしながら、ヨーロッパで活躍していたポルジンギスの名前はアメリカには届いておらず、無名の選手を4位指名で指名したことでポルジンギスはドラフト会場で大きなブーイングを受けてNBAキャリアをスタートしました。

無名選手としてニックスに加入したポルジンギスには非難の声が上がりましたが、そのおかげで必要以上をプレッシャーを感じることがなく、それがポルジンギスにとって非常に有利に働きました。彼はデビュー戦のバックス戦で16得点を挙げてチームを勝利に導くと11月21日の試合では24得点14リバウンド7ブロックを記録し、NBA選手の中でも圧倒的なリムプロテクト能力を見せつけました。彼はこの年14.3得点7.3リバウンド1.3アシスト1.9ブロックを平均し、ドラフト時の過小評価をひっくり返して一躍ニックスのスター候補に躍り出ました。新人王は同じビッグマンのKATに奪われてしまいましたがきっちりオールルーキー1stチームに選出され、ニックスファンの期待を良い意味で裏切りました。

2年目シーズン、彼は11月のピストンズ戦でキャリアハイの35得点を挙げチームを接戦での勝利に導き、12月にはレイカーズ戦で26得点12リバウンド7ブロックを記録し完全にチームの中心選手となっていました。しかしこの頃から彼は高身長選手ゆえの足のケガに悩まされ、1月には左足のアキレス腱を損傷して欠場をしていました。ポルジンギスが加入してからの2年間彼個人としては将来のスーパースターとしての活躍を残していましたが、チームはプレイオフ進出を逃していました。

2017~2018シーズン、ポルジンギスは開幕戦でいきなり31得点12リバウンドを記録しチームを勢いづけました。10月下旬の試合では38得点を挙げてナゲッツ相手に勝利し、間をあけずに新キャリアハイの40得点でペイサーズ戦に勝利しました。ポルジンギスは開幕10試合で300得点を達成したニックス史上初の選手となりこの年彼は初オールスターに選ばれました。んいっくすの歴史に名を刻み、オールスターになったポルジンギスですが2月のバックス戦で左足のACLを断裂するケガを負いシーズンを選球することになってしまいました。ただでさえビッグマンで足の負担が大きいうえにNBA選手としては細身の彼の身体はNBAで戦う中で負担に耐え切れなくなっており、そのケガは深刻なもので彼が以前の彼に戻れるかも怪しいものでしたがニックスは彼を信じて待つことにしました。

しかし、10月の契約延長後に勝てないチームに不満を募らせていたポルジンギスとニックスに対して不満を抱いていた彼の兄がチームにトレードを要求し、彼はケガ後に1度もプレーすることなくマーベリックスにトレードされてしまいました。

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ヨーロピアンコンビの結成~不仲説

2019年1月31日ポルジンギスはニックスを去ってマーベリックスに移籍しドンチッチと将来のヨーロピアンコンビを結成しました。2月から復帰したポルジンギスは序盤は手こずっていましたが、シーズンが終わるころにはスターフォームに戻り20得点9リバウンド2ブロック以上を平均してシーズンを終え初めてのプレイオフに出場しました。彼はクリッパーズとの1回戦に挑みましたが、第1戦では初めてのプレイオフに動揺したのか14得点6リバウンドと2番手としては期待外れのパフォーマンスに終わりました。その声に応えるように第2戦では23得点7リバウンドを記録しましたが、それでも彼に対する期待は大きく世間からはまだ活躍が足りないと言われていました。その批判を跳ね返すように第3戦では34得点13リバウンドと文句なしの活躍を残しましたが、ここで彼のケガ癖が足を引っ張り彼はこれ以降の試合に出場することができず、チームは1回戦で敗退してしまいました。

2020~2021シーズン、ポルジンギスは10月に半月板損傷の手術を受け、1月に復帰を果たしました。出場時間制限を設けられていましたが彼は21分の出場で16得点を記録し、いまだ支配力を持っていることを見せつけました。しかし彼とチームは彼の身体への負担を軽減するために2試合以上連続の試合に彼を出すことを避けるようになり、そのためかれの出場試合数は非常に少なくなりました。この年彼は43試合のみの出場で20.1得点8.9リバウンド1.3ブロックを平均しましたがやはりケガの影響は大きく彼のプレイの幅は狭くなっていました。それはプレイオフでも大きく彼のスタッツに影響し、ドンチッチがボールを持つ時間の多くで彼はコーナーに立っているだけという光景が多く見られました。彼はこのシリーズで大きくスタッツを落とし、13.1得点5.4リバウンド0.7ブロックまでパフォーマンスが落ちました。

まとめ

いかがだったでしょうか。彼は明らかに大きい才能を持っていますが身長ゆえのケガやチームの使い方が少し悪いように感じます。彼のリムプロテクト能力を見る限り彼はC寄りのPFとして起用することが一番良いと思いますが、彼のケガを心配するあまりに彼の使い方を間違っているように思います。

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【選手紹介】尊敬すべき復活劇を果たした元スーパースター:グラント・ヒル(2/2)

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ケガをキャリアの転換期に出来たスター

前回紹介したようにヒルはNBAに入ってきたときから文字通り何でもできるオールラウンダーとして活躍していましたが、プレイオフでは1回戦を突破酢することができていませんでした。そして周囲の選手たちも成長し1回戦突破の最大のチャンスとなった2000年のプレイオフで元から負っていた足首のケガを悪化させてしまい、このケガに残りのキャリア全体を狂わされることになりました。初めはそのケガによってスターレベルでプレーできなかった自分にいらだっていたヒルですが、サンズへの移籍を通じて自信を優秀なロールプレイヤーに変えることができました。今回はヒルの取り返しのつかないケガを負ってしまった後のキャリアについて紹介していきます。

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新天地への移籍~期待外れのシーズン

2000年、プレイオフで足首のケガを悪化させてしまったヒルはケガの状態が確定していないながらも、復帰後のパフォーマンスに大きな期待がかかっており、FAとしてマジックに移籍し将来のスターのトレイシー・マグレディーとプレーすることを楽しみにしていました。しかし、自身のスターをただで失うわけにはいかないピストンズとの交渉が遅延しヒルは8月にサイン&トレードでマジックに移籍することになりました。マジックはヒルとマグレディーのデュオがチームを押し上げる最高のコンビになることを期待してケガを負っていたヒルを獲得しました。しかしながらやはり足首の状態は深刻なものであり、ヒルは移籍1年目にたった4試合、2年目は14試合、3年目は29試合のみの出場に留まりチームはこのトレードに完全に負けてしまいました。

そして2003年の3月に足の骨の手術を受け賢明なリハビリに取り組んだヒルは、2004~2005シーズンに復帰を果たしました。軽傷を負って数試合欠場することがありましたが、このシーズンは久しぶりに比較的健康な年を過ごし67試合の出場で、19.7得点2.3アシスト4.7リバウンドを平均し、オールスタースターターに返り咲きました。しかしヒルの復帰後のパフォーマンスは明らかにピストンズ時代のものとは違いすべてのスタッツで大きな低下を見せました。

翌シーズン、ヒルは昨年いきなり67試合にスタートとして出場したことで体に大きな負担がかかったのか、足首ではなかったものの鼠径部のケガを負いわずか21試合にしか出場できませんでした。そしてこの年ヒルは鼠径部負傷に加えてアスリートとして致命的なヘルニアを患い、手術を受けました。

そしてマジック最後のシーズンとなった2006~2007シーズン、引退も噂されたヒルでしたが、何とか復帰を果たしました。ヒルは復帰後、接触やインサイドでのプレーが必要になるSFから負担が少なく済むSGのポジションでスタートすることになりました。このシーズンも膝や足首のケガに悩まされることになりましたが、65試合に出場しました。ヘルニアや度重なる足のケガによって以前のようなアスレチックなプレーはこの頃にはすでに難しくなっており、このシーズンの平均スタッツは14.4得点2.1アシスト3.6リバウンドと大きく落ち込みオールラウンダーとしてリーグを支配していたころのヒルは完全に鳴りを潜めました。8位シードとして何とかプレイオフに進出できましたが、ピストンズにスウィープで敗れてしまい、ヒルは引退と現役続行を迷い、FAとしてサンズに移籍することを決断しました。

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サンズでの復活劇~最後のプレイオフ

2007年、FAとなったヒルはサンズと契約を交わし、移籍していきなりナッシュと共にキャプテンに任命されました。彼はナッシュが率いるアップテンポなバスケットボールに完全にフィットできました。この年は数試合を欠場しましたが、久しぶりに70試合でロールプレイヤーとして13.1得点2.9アシスト5.0リバウンドを平均し、サンズのオフェンスのキープレイヤーとして移籍1年目からチームに必要とされる選手として活躍することができました。レギュラーシーズンを終え、チームプレイが素晴らしかったサンズはプレイオフに出場することができましたが、同じくチームバスケットで知られるスパーズに1勝4敗で敗れました。

翌年、ヒルはキャリア初の全82試合出場を果たし、12.0得点2.3アシスト4.9リバウンドを平均しました。しかしながら、チームは2005年以来初めてプレイオフ進出を逃しました。

2009~2010シーズン、ヒルは優秀なロールプレイヤーとしての働きが大きく評価され、セルティックスやニックスからのオファーが来ていましたが、ナッシュ率いるサンズのチームに優勝の可能性を感じており、彼はサンズと再契約を結びました。そしてこのシーズン、ヒルは初めてプレイオフ1回戦を突破し、カンファレンス・ファイナルまで進出することができました。カンファレンス・セミファイナルではスパーズをスウィープし2008年プレイオフの屈辱を果たしましたが、次のレイカーズ戦では2勝4敗で敗れ、NBAファイナルに進出することはできませんでした。ヒル自身もこのプレイオフでは平均得点が2桁に届かず、レギュラーシーズンのような貢献を残すことはできず、チームとしても個人としても不完全燃焼なシリーズになりました。

翌年、アマレ・スタダマイアーがニックスに移籍したことでサンズは大きくロスターに変更を加えることになりました。また、急成長を見せていたドラギッチもトレードで放出され、チームの中心にはナッシュ、ヒル、ビンス・カーター、ジェイソン・リチャードソンなどの高齢選手が増えました。ヒルはこの年38歳の年齢で13得点以上を平均した7人目の選手となり、1月15日のブレイザーズ戦ではキャリア通算16,000得点を達成しました。この年サンズは40勝42敗の成績を記録し決して悪くない結果を残しましたがライバルひしめくカンファレンスではプレイオフに進出することはできず、ヒルはこのまま翌年もプレイオフを逃しました。

2012年、サンズとの契約が切れると彼は数々の優勝候補からロールプレイヤーとしての貢献を期待されていました。具体的にはレイカーズ、ヒート、ニックス、ブレイザーズ、OKCサンダーの5チームからオファーを受けており、ヒルはベンチプレイヤー界のスター選手として認識されていました。しかしそれでもヒルはクリス・ポール率い「リブシティー・クリッパーズ」の一員としてキャリア最後の年を過ごすことを選びました。しかし2008年からは」健康にプレーしていた彼はこの年に右膝のケガを負ってしまいシーズン開幕から3か月の欠場を余儀なくされました。このシーズンヒルはたった29試合の出場に留まり、スタッツも平均3.2得点1.7リバウンドと昨年までのスーパーロールプレイヤーの面影すら失ってしまいました。そしてプレイオフ1回戦でグリズリーズ相手に6戦で敗退し、ヒルは1度もNBAファイナルに出ることができないまま引退を表明しました。

まとめ

いかがだったでしょうか。圧倒的な実力を持つスター時代と最高のロールプレイヤーとして活躍したマジック時代以降のヒルを見て彼がケガをしていなかったらどのような選手になっていただろうかと想像してしまうのはNBAファンとして当然のことだと思います。しかしそれでも殿堂入りを達成した彼のことを素直に素晴らしい選手として見てほしいと思います。

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【選手紹介】尊敬すべき復活劇を果たした元スーパースター:グラント・ヒル(1/2)

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ケガを乗り越えた元ネクストジョーダン

グラント・ヒルと言えばスーパースター、そしてネクストジョーダンとしてNBAを支配するはずだった選手でしたがケガによってその潜在能力を活かしきることができずにキャリアを終えた選手というイメージが強いです。実際に彼がスターとしてプレーしていた時期とケガによってパフォーマンスが落ちた時期を比べるとそこにNBAを背負う男として期待されていた選手の面影はありませんでした。しかし彼は40歳までプレーし続け、その豊富な経験とそれによって培ったスキルを活かして素晴らしいロールプレイヤーとしてチームに貢献していました。今回は自分をスターからロールプレイヤーに上手に変えて高齢までNBAで戦い続けたヒルについて紹介していきます。

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大学時代~ピストンズでのスター時代

ヒルは高校時代から将来有望な選手としてその名を轟かせており、彼の母親はジョージタウン大学を、父親はノースカロライナ大学をヒルの進学先として希望していました。しかし両親の思いとは裏腹にヒルはデューク大学へ進学し、チームをNCAAトーナメントで1973年のUCLA以来の2連覇に導きました。彼は大学4年間で累計1,900得点700リバウンド400アシスト200スティール100ブロック以上を記録した史上初めての選手となり、大学史上最高の選手との評価を受けて1994年NBAドラフトにエントリーしました。

アイザイア・トーマスを中心とした「バッド・ボーイズ」以降チームの中心になれる選手を獲得できていなかったピストンズは1994年に全体3位でヒルをドラフトしました。彼は203㎝とSFとして適切な身長と高い身体能力を活かしてルーキーシーズンからリーグを驚かせるようなパフォーマンスを見せました。彼は1年目からチームの中心として活躍し、得点・アシスト・リバウンドすべての面でチームに大きく貢献しており、シーズンが終わると19.9得点5.0アシスト6.4リバウンド1.8スティールを記録しました。彼の活躍はシーズンの序盤から見ることができ、彼のスター性を高く評価したファンたちのオールスターのスターター投票は彼に集中しました。結果的に彼は129万票を獲得し、4代スポーツ史上初のルーキーとして1位の票数を得たオールスターになりました。このシーズン、ヒルの活躍も圧倒的でしたが、マーベリックスを一気に変えたキッドの活躍も高い評価を受け非常に珍しい新人王を2人同時に受賞するという光景が見られました。ヒル自身はいきなりチームのエースになる活躍を残しましたが、チームの勝利につながることはなく、28勝54敗と大きく負け越しプレイオフに進出することはできませんでした。

2年目のシーズン、ヒルはオールラウンダーとしてさらに成長し、20.2得点6.9アシスト9.8リバウンドを平均し、現代で言うところのポイントフォワードのような活躍を残しました。トリプルダブルの数もシーズンでリーグトップの10回を記録し、彼は当時のNBAで唯一とも呼べるような万能型選手でした。それが彼の魅力となり多くのファンを惹きつけ、それはオールスターの投票でも明らかであり、このシーズンも彼はファン投票で1位の票数を集めました。このシーズン、彼のオールラウンドなプレーに牽引され、46勝まで成績を伸ばしたチームは1992年ぶりにプレイオフに進出しましたが、1勝もできずにスウィープで敗退してしまいました。

翌シーズン、彼は1989~1990シーズンのラリー・バード以来の快挙を達成し、平均20得点7アシスト9リバウンド以上を平均した選手となり、この記録は2016~2017シーズンにウェストブルックがシーズン平均トリプルダブルを記録するまで破られることはありませんでした。彼はこのシーズンまたしてもトリプルダブル数でリーグトップに立ち、13回のトリプルダブルを記録しました。彼は1月の月間最優秀選手に選ばれ、リーグでも最強の選手の1人として評価されるようになっていました。このシーズン彼はプレイオフで1勝しかすることができずまたしても1回戦で敗退してしまいましたが、彼個人の力を疑う人は非常に少なくジョーダンとマローンに次いでMVP投票では3位につけました。

この3年間のシーズンを含めて1998~1999シーズンまでの5シーズン間、ヒルはチーム唯一のスーパースター選手として活躍し、レブロンにも匹敵するほどの万能性と支配力を見せつけていました。彼のオールラウンド力はすさまじく、ウィルト・チェンバレンとエルジン・ベイラーの2人しか達成していなかった1シーズンで得点・アシスト・リバウンドの3スタッツ全てでチームトップを記録するという異常な活躍を残しました。しかしそれは、それほどの活躍をしなければ勝てないようなチームしかヒルのために用意することができていなかったということでもあり、彼の身体は少しずつ疲労や負荷に蝕まれていきました。そしてその大きな負担が積み重なり1999~2000シーズンにヒルはキャリアを揺るがすケガを負ってしまいます。

1999~2000シーズン、ヒルは25.8得点5.2アシスト6.6リバウンドを平均し、またしてもMVP投票では3位になりました。彼は引き続きオールラウンドな活躍を見せていましたが、プレイオフでは結果を出すことができていませんでした。そしてこの年のプレイオフは彼のピストンズでの最後のチャンスとなりました。この年のピストンズには平均23.6得点を残すまでに急成長したジェリー・スタックハウスと頼れるシューターのリンジー・ハンターなどヒル以外にも頼れる選手がいました。そして勇んで挑んだプレイオフでヒルは元から負っていた足首のケガを悪化させてしまいチームも最大のチャンスを逃しました。そしてここからスターとしてプレーするヒルの姿は少なくなっていき、足首のケガをきっかけにキャリアの坂道を転げ落ちていくことになります。

まとめ

いかがだったでしょうか。ヒルはチームで唯一のスターとしてプレーすることができたからこそあのレベルで輝くことができたのではないかと思いますが、それゆえ、ケガでキャリアを不完全燃焼で終わらせてしまった選手だと思います。彼は世間の言う通りに次世代のマイケルジョーダンになれる可能性が高かった選手だけにケガが残念ですが、彼がケガ前に達成したことと、これから紹介していくケガ後のアジャストメントを見ていくと彼の選手として、そして人間としての素晴らしさが分かります。

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【チーム紹介】NBAの悪役チーム:デトロイト・ピストンズ

f:id:koroUTAS:20211107183551j:plain神様を苦しめた1980年代後半のヒールチーム

1986年のドラフトでコアメンバーとなるデニス・ロッドマンをドラフトしたピストンズは、ジョーダンが初めての優勝を達成するための最初の壁として彼の前に立ちはだかりました。非常に荒いディフェンスをアイデンティティとするチームは「バッド・ボーイズ」と称され、リーグに嫌われる存在として活躍しました。

アイザイア・トーマスをエースとして1989年と1990年に2連覇を成し遂げ、歴史に名を刻むチームとして評価を受けているこの時代のピストンズですが、何がそのような評価につながっているのでしょうか。今回は1980年代後半から1990年代前半にかけてリーグを席巻していたピストンズについて紹介していきます。

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「バッド・ボーイズ」の始まり~1度目の優勝

1981年にキープレーヤーのビニー・ジョンソン、1982年にビル・レインビアを獲得したピストンズはさらにディフェンスを強みとしたチームを作り上げるために1983年にチャック・デイリーを新HCとして雇いました。しかしそれでも、チームとしてディフェンスをアイデンティティとすることに苦戦していたピストンズは1986年ドラフトでロッドマン、ジョン・サリー、エイドリアン・ダントリーの3人の核となる新しい戦力を追加することができました。そしてこの3人がバッド・ボーイズ・ピストンズの成立に大きく貢献することになりました。この年チームとして確実なスタイルを作り上げたピストンズは圧倒的な強さを見せてカンファレンス・ファイナルに進出しましたが、7戦シリーズでセルティックスに敗れました。

しかし、翌シーズンセルティックス戦での敗戦をモチベーションとしてさらに結束力を高めることができたピストンズはレギュラーシーズンで54勝を記録しフランチャイズ初のディビジョン優勝を達成しました。その流れのままプレイオフに出場したピストンズは見事にセルティックスへのリベンジを果たしてフランちゃずがデトロイトに移籍してから初めてのNBAファイナルに進出しました。ファイナルの相手はマジック・ジョンソン擁するレイカーズであり、先に3勝2敗でリードをとったピストンズでしたが、第6戦でエースのアイザイアがケガを押してプレーしていたことで、第7戦では万全の状態でプレーすることができず最大のチャンスを逃してしまいました。

1988~1989シーズン、ピストンズはオフェンスでアイザイアにかかる負担を軽減するために、ディフェンスの要として活躍していたダントリーをトレードしてオフェンス力の高いマーク・アグワイヤーを獲得しました。このトレードは初めは大きく批判されていましたが、予想以上にピストンズが好調なプレーを続けたことで徐々に批判の声は無くなっていきました。このシーズンピストンズは最終的に63勝を記録しまたしてもフランチャイズの勝率記録を塗り替えました。この勢いはプレーオフでも続き、レイカーズをファイナルでスウィープするとフランチャイズ初優勝を達成しました。

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2連覇達成~バッド・ボーイズの解散

初優勝を達成した次のシーズン、ピストンズはミネソタ・ティンバーウルブズがNBAに新しく加入する際に行われるエクスパンション・ドラフトでチームの重要なベンチプレーヤーとして活躍していたリック・マホーンを失ってしまいました。しかしながら何とか59勝を記録してピストンズはプレイオフに進出し、カンファレンス・ファイナルではジョーダンとピッペンが躍進した若いブルズと対戦しました。ピストンズは後の神様となるジョーダン相手に苦戦を強いられ、第7戦までシリーズを戦い抜くことになりましたが、ブルズを破って2年連続のNBAファイナル出場を果たしました。ファイナルではブレイザーズとの対戦となり、「マイクロウェーブ」と呼ばれたスコアラーのビニー・ジョンソンに助けられ残り時間0.07秒で勝利を決定づけたピストンズは連覇を達成することができ、アイザイアはファイナルMVPに選出されました。

そして3連覇をかけて挑んだ翌シーズン、アイザイアがプレイオフ前に重大なケガを負ってしまい大きく戦力が低下したピストンズはブルズにリベンジを許してしまいスウィープでプレイオフ敗退することになってしまいました。このシリーズの後、年齢による衰えが隠せなかったジョンソンをウェイブし、ジェームズ・エドワーズをトレードしたピストンズはオフェンス面での強みを失ってしまい負け始めるようになっていきました。

1991~1992シーズン、プレイオフ1回戦でニックスに1勝4敗で敗れた責任を取ってチャック・デイリーがHCを辞任し、サリーとロッドマンをトレードしてチームとして崩壊に向かいました。

1993年にはレインビアが引退を表明し、1994年にはアイザイアも引退したピストンズは完全にバッド・ボーイズ時代のメンバーを失い長い再建期に入りました。

まとめ

いかがだったでしょうか。この時代のピストンズはアイザイアを中心としてフィジカルすぎるディフェンスで流れを呼び込む伝統的なバスケットをしていたチームでした。今のバスケとは大きく異なり、ディフェンスから流れを作り出した「バッド・ボーイズ」は後のニックスにも影響を与えており、NBAの歴史には欠かせないチームです。

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