【選手紹介】アジア史上最強のNBAプレイヤー:ヤオ・ミン(2/3)
ケガに見舞われた全盛期のスター
前回は中国からやってきた恵まれた身体と才能を持ってNBAに挑戦してきたヤオは周囲の過小評価を乗り越えて2年目シーズンにオールスターに、マグレディという相棒を得た3年目シーズンにはオールNBAチームの一員として選ばれるほどの選手に成長しました。マグレディと共にリーグ最高のデュオの1つとして2人ともスーパースターとしてチームを牽引していき、いずれは優勝を成し遂げることが期待されていました。しかし、マグレディはもとよりケガをしやすく、背中に爆弾を抱えており、ヤオも高身長選手ながらのケガに悩まされることになりました。今回はヤオのキャリア中盤について紹介していきます。
いきなり襲ってきたケガ~突破できない壁
2005~2006シーズン、ヤオは左足の踵の骨髄炎が原因でシーズンの頭から21試合を欠場しました。シーズン前半の試合の半分を欠場したにもかかわらずヤオの人気は衰えず、この年のオールスターゲームにもスターターとして出場しました。オールスター後の25試合で完全に復活したヤオは平均25.7得点11.6リバウンドを記録し、シーズン終了後には22.3得点10.3リバウンドを平均しました。彼はこのシーズンキャリアで最初で最後の20‐10シーズンを記録していましたが、相棒のマグレディは背中のケガに苦しみ47試合しか出場できず、共にプレーした試合数はわずか31試合に留まりました。さらに不幸なことに、シーズン残り4試合というところでヤオは左足を骨折してしまいました。そしてこのデュオを中心として作り上げられたチームは核を2人ともを失ったことで調子を出すことができず34試合しか勝利を積み上げられずにプレイオフ進出を逃しました。
次シーズン、ヤオは10月に足の骨折を直してプレーに戻っていましたが、12月23日に右膝を骨折してしまいました。このケガをするまでに彼は26.8得点9.7リバウンド2.3ブロックを平均しており、MVP筆頭候補に名前が挙がるほどのプレーをしていましたが、32試合を欠場したのちに3月にようやく復帰しました。ヤオがいない間も勝利を積み重ねていたロケッツは3位シードとしてプレイオフに出場しました。ジャズとの1回戦でヤオは25.1得点10.3リバウンドを平均していましたが、2勝を先取したのちに2戦を取り返され、結果的に第7戦で敗れました。32試合を欠場したにも関わらずパフォーマンスがあまりにも圧倒的だったこともあり、ヤオはシーズン終了後にオールNBA2ndチームに選出されました。
オールスターへの復帰シーズン~オリンピックでの活躍
2007~2008シーズンが始まる前の5月、マグレディとヤオという2人のスター選手がチームにいるにもかかわらず、1度も1回戦を突破することができたいなかった状況を何とか打破するためにチームはHCのヴァンガンディーを解雇し、リック・アデルマンを雇いました。HCが変わったこのシーズン、ヤオは11月9日にバックス戦で初めて中国人プレイヤーのイー・ジャンリャンと対戦しました。この中国人同士の対戦は中国全体の注目を集め生放送は20億人の中国人が観たそうです。ケガからの復帰を果たして比較的健康にプレーしていたこのシーズン、ヤオは1年ぶりにオールスターゲームに出場し、スターターとしてプレーしました。チームはオールスター前にも8連勝を記録していましたがオールスター後にもその勢いを保って12連勝を記録しました。勢いに乗っていたロケッツでしたが、2月末にヤオが左足を疲労骨折してしまい結果的にプレイオフを含めてプレーすることができなくなりました。
プレイオフで活躍することはできなかったヤオでしたが、北京オリンピックでは「ここでプレーしないことは僕の人生にとっては一番の損失だ」と言って足の手術を乗り越えてプレーしました。7月17日にプレーできる状態で代表チームに合流した彼は、アメリカとスペインと一緒のグループBを勝ち抜かなければならないことになりました。アメリカには70対101の大差で敗れ、スペインには延長戦の末に75対85で敗れてしまいましたが、アンゴラ戦では30得点を記録してチームの勝利に貢献し、ドイツとの試合では25得点を挙げて3点差で辛くも勝利しました。アメリカ、スペイン、ギリシャに次いで何とか本戦枠を確保した中国でしたが、1回戦のルイジアナ戦では26点差をつけられて敗れ、トーナメント敗退を喫しました。ヤオの1試合平均19得点は大会2位、8.2リバウンドと1.5ブロックは大会3位を記録しており、このオリンピックでの活躍は2008~2009シーズンでのヤオの完全復活と成長を感じさせるようなものでした。
まとめ
いかがだったでしょうか。今回紹介したキャリア中盤ではヤオはスター選手として覚醒したシーズンからすぐにケガによる欠場が続き思うような活躍を残すことができませんでした。特に2008年のプレイオフではヤオがプレーしていなかったにもかかわらず、ロケッツはジャズ相手に2勝を挙げることができたのでもしこのシリーズにヤオがいればロケッツは1回戦を突破できていたかもしれません。
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【選手紹介】アジア史上最強のNBAプレイヤー:ヤオ・ミン(1/3)
アジア最強のビッグマン
中国からNBAに挑戦し、短い期間でしたが圧倒的な実力を見せつけたヤオ・ミン。彼はケガが原因でキャリアが非常に短くなってしまいましたが、トレイシー・マグレディとコンビを組んでロケッツをプレーオフ常連チームへと押し上げました。出場制限が原因となり満足にプレーできなかった2010年以外の年のすべてでオールスターに選出されたヤオの実力は本物であり、2016年にはバスケットボール殿堂入りを果たしています。今回はヤオの偉大なキャリアの序盤について紹介していきます。
天賦の才能と体格を持つ青年〜過小評価されたルーキーシーズン
1980年に上海で生まれたヤオは13歳になる頃には身長が200cmを超えており、ジュニアチームでの4年間のプレーを終えた後に1997年にCBAリーグのシャークスでプロとしてのキャリアをスタートさせました。ヤオはプロとしての最初の5年間をCBAでプレーし、3年連続のリバウンド王とブロック王、1度のファイナルMVPとシーズンMVPを受賞しました。彼はCBAだけでなくFIBAワールドカップでも活躍しており、NBAでの高順位指名が予想されるまでの選手になっていました。しかし中国とのチームの契約の問題があり、ドラフトで指名するリスクが非常に高い選手としても知られていましたが、最終的にヤオは2002年NBAドラフトで1位指名を受けました。
当時のNBAでは露骨な人種差別が残っており、ドラフトのときにヤオはブーイングを受け、何人かのコメンテーターにはアジア人だからNBAでは失敗するだろうと言われていました。実際ヤオはアメリカ文化に馴染むのに時間がかかり、NBAでのデビュー戦では無得点、そして最初の7戦を平均14分間出場、4得点で終えました。バストになる可能性が高くなっていたヤオでしたが、11月17日のレイカーズ戦で9本のFGをすべて沈め、2本のFTも決めきりいきなり20得点をスコアして世間を黙らせました。そしてこの瞬間から順調に活躍を続けていたヤオは1月17日にレジェンドCのシャックと初対決に臨みました。ヤオは試合開始するや否やロケッツの最初の6得点を取り、シャックを2回ブロックしました。この試合でヤオはシャックのディフェンスに苦戦し10得点に終わりましたが10リバウンドと6ブロックを記録し、ディフェンス面で大きなインパクトを見せつけました。このパフォーマンスはヤオのNBAでの人気を爆発的に高め、ヤオはルーキーシーズンにいきなりオールスターのスターターとして選出されました。ヤオはこのシーズンを平均13.5得点8.2リバウンド1.8ブロックで終え、新人王こそアマレ・スタダマイアーに奪われましたがオールルーキー1stチームに選出されロケッツの将来を担う存在として注目されるようになりました。
2年目シーズン~オールNBAプレイヤーへの成長
ヤオはしっかりと結果を残したルーキーシーズンを終え、ソフォモアシーズンを迎えようとしていましたがチームのHCだったルディ・トムヤノビッチが健康上の問題により辞任し、新HCのジェフ・ヴァンガンディーが就任することになりました。彼のゲームプランはヤオのポテンシャルを最大限に引き出すことができ、平均17.5得点9.0リバウンド1.9ブロックを記録して特にオフェンス面で大きく成長しました。2月のホークス戦では3度のオーバータイムの中で41得点7アシストを記録し、個人としての存在感を大きく伸ばしたヤオはまたしてもオールスタースターターに選出され、シーズン終了後にはオールNBA3rdチームに選出されました。この年ロケッツはヤオが加入してから初めてのプレイオフに進出しましたが、ヤオはレイカーズとの1回戦で平均15.0得点7.4リバウンド1.4ブロックとパフォーマンスを落として5戦でシリーズを敗退してしまいました。
そして2004~2005シーズン、ヤオを中心選手として据えたロケッツは彼と共にチームを引っ張るもう1人のエースプレーヤーとしてマジックとのトレードでトレイシー・マグレディを獲得しました。このトレードには7人の選手がかかわっており、このことからもロケッツの本気さが感じられました。ヤオはこのトレードについて、「スティーブ・フランシスとカッティーノ・モーブリーは本当に自分を支えてくれていた。だけどマグレディは素晴らしいプレーをする選手であり一緒にプレーするのか楽しみだ」と述べており、2人の関係は良い状態でスタートしました。このコンビはチームを一気に優勝候補に押し上げ、2人ともオールスターのスターターに選出され大きな期待を背負っていました。この年ヤオはオールNBAチーム選出を逃しましたがそれでもリーグ屈指のCとして活躍し、相棒のマグレディはオールNBA2ndチームに選出され、51勝を記録して5位シードとしてプレーオフに進出しました。ヤオはプレイオフ平均21.4得点7.7リバウンド2.7ブロックを記録してスーパースターレベルでプレーしましたがマグレディが絶不調に陥り、第7戦でシリーズを敗退してコンビ結成1年目シーズンを終えました。
まとめ
いかがだったでしょうか。ヤオはアジア人だからNBAでは成功できないという先入観を打ち破って1年目から活躍し2年目以降にはスター選手まで駆け上がりました。チームはヤオの周りに優秀な選手をそろえることができずに苦戦していましたが、このマグレディのトレードがロケッツを数年にわたって優勝を期待できるようなコンビを結成するきっかけとなりました。
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【チーム紹介】王朝の始まりとなったチーム:2015年に優勝したゴールデンステート・ウォリアーズ
革新的なスタイルで40年ぶりの優勝を成し遂げた王朝前のウォリアーズ
2015年のNBAファイナルでドレイモンド・グリーンをセンターに据えたDeath Lineupで2勝1敗の状況から逆転優勝を決めたウォリアーズ。イグダラがスターターに昇格をした第4戦からチームは大きく変わりそのおかげで40年ぶりのチャンピオンリングを手に入れることができました。しかし2015年のウォリアーズは絶対的な優勝候補として期待されていたわけではなく、カンファレンス・ファイナル出場すら疑われるようなチームでした。ではなぜ彼らが2015年のNBAを制覇することができたのでしょうか。今回は2015年のウォリアーズとそこまでの軌跡について紹介していきます。
優勝へのターニングポイント~優勝を目指せるチームへ
2009年ドラフトでステフィン・カリーを指名し、2011年にはクレイ・トンプソンをドラフトしたウォリアーズは、2012年3月半ばにそれまでチームのスターとして活躍していたモンテ・エリスをトレードしチームの将来をカリーとトンプソンに託すことに決めました。
そして迎えた2012年ドラフトでハリソン・バーンズとドレイモンド・グリーンの2人を獲得したウォリアーズはこのシーズンを47勝35敗の6位シードで終えて6年ぶりにプレイオフに出場しました。プレイオフでは上位シードのナゲッツを倒し、若いチームながら2回戦まで進むことができました。このシーズン、チームのメンバーの多くが躍進を遂げ、Fのデイビッド・リーがオールスターのリザーブに選出され、カリーとトンプソンが2人で483本の3PTを沈めて「スプラッシュ・ブラザーズ」と呼ばれるようになりました。
2013~2014シーズン、ウォリアーズは昨年のプレイオフで敗れたナゲッツからオールスター選手のアンドレ・イグダラを獲得し、チームとしての安定性を向上させることができました。しかしながらその補強とは裏腹に12月上旬の成績は12勝9敗でこれは前年の同時期の17勝4敗と大きく下がっていました。さらにイグダラがケガをしてしまい1カ月ほど欠場を余儀なくされることになってしまいました。この間ウォリアーズのオフェンスとディフェンスのレベルは大きく下がり彼がいない間の12試合でチームはわずか5勝しかできませんでした。しかしひとたびイグダラが復帰するとチームのパフォーマンスは向上し、アウェイゲームでの6勝を含む10連勝を記録しました。イグダラがいなかった間ベンチの質が大きく下がったことを問題視したチームはトレードでジョーダン・クロフォードとベテランPGのスティーブ・ブレイクを獲得しました。そしてこの2人の加入によりシーズン前半の不調を挽回することができたウォリアーズは1991年から1992年の22年ぶりの2年連続のプレイオフ進出を果たしました。しかし当時NBAの優勝候補の1つとして数えられていたロブシティ・クリッパーズに1回戦で敗れてシーズンを終えました。このシーズンのウォリアーズは51勝31敗の成績でプレイオフに進出しており、カリーは2シーズン合計3PT成功数でレイ・アレンを抜いて533本の3PTを決めました。また、スプラッシュブラザーズの2人はこのシーズン合計で484本の3PTを沈めて前年に打ち立てた記録を破っており、この2人を中心としたチームなら優勝チャンスはいずれ来るだろうと確信できるようなパフォーマンスを発揮しました。
早くも到来したNBA制覇の時
プレイオフでは思うような結果を残すことができていなかったものの若手を中心としたチームは確実な成長を続けており、ウォリアーズはさらなる一歩を踏み出すためにHCのマーク・ジャクソンを解雇してスティーブ・カーを新しく雇うことにしました。カーのこのシーズンは初めてのHCシーズンでしたが、彼は新しいHCらしく大胆なムーブを起こして、ミッドレンジゲームとゲームコントロール能力が優れていたショーン・リビングストンとリアンドロ・バルボサを獲得してさらにベンチの層を厚くしました。このシーズンのウォリアーズはカーが考案したカリーとトンプソンを最大限に生かすプレーによって圧倒的な攻撃力を誇るチームとしてNBAを一気に席巻し、67勝15敗の成績を残して1位シードとしてプレイオフに出場しました。また、2人のシューターにオフェンスの舵を完全に任せたことによって彼らは大きく目立つようになり、カリーとトンプソンはオールスター選出を受け、シーズン合計で273本の3PTを決めたカリーはシーズンMVPを受賞しました。
ウォリアーズはプレイオフでも快進撃を続け、NBAファイナルに進出しました。ウォリアーズは最初の3戦を1勝2敗で終え、レブロンに圧倒されていました。この状況を受けてカーはスターティングCのアンドリュー・ボーガットをの代わりにイグダラをスターターに戻し、カリー・トンプソン・イグダラ・バーンズ・グリーンの5人で結成されるDeath Lineupでキャバリアーズに挑みました。イグダラがスターターに昇格しレブロンに対するロックダウンディフェンスをしたことで大きくシリーズの流れが変わり、ウォリアーズは第4戦からの3連勝で優勝を成し遂げました。そしてファイナルMVPはシックスマンからいきなりスターターに戻ってシリーズの流れを大きく変えたことが評価されてイグダラが受賞しました。
まとめ
いかがだったでしょうか。ウォリアーズはカリーを信じてエリスをトレードした時から一直線に優勝まで走り抜けることができたチームです。この後ウォリアーズは王朝を築いて3連覇を目指すほどのチームとして2010年代後半のNBAを支配することになりますが、この年の優勝がなければ王朝を築くことはなかったと思うほどこのチームは後のNBAに影響しています。
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【選手紹介】オリジナルの王朝のベストベンチプレーヤー:トニー・クーコッチ
王朝ブルズを支えた陰の功労者
1996年から1998年のプレイオフに欠けて2度目の3連覇を果たしたブルズの有用なベンチプレーヤーとして活躍したトニー・クーコッチ。「クロアチアの天才」と呼ばれたクーコッチはブルズ以外のチームであればチームを代表する選手に慣れるほどの実力と能力を持っていたプレーヤーでしたが、ジョーダンを中心としたBIG3のブルズをベンチからの安定的な得点とアシストで支えて3度の優勝を成し遂げました。今回はそんなクーコッチのキャリア前半について紹介していきます。
ヨーロッパでの個人の栄光~NBAへの挑戦
クロアチアのスプリットという町で育ったプロサッカーのゴールキーパーとして活躍した父親に影響されて若いころからスポーツに慣れ親しんで成長しました。しかし将来NBAに入るような選手になるにもかかわらずクーコッチはバスケットボールではなく卓球とサッカーをして成長期を過ごしました。卓球でもかなりの才能を持っていた彼でしたが国内のいくつかの青少年枠での賞を獲ったのちにバスケットボールをプレーするようになりました。
そしてバスケットボールを始めたクーコッチの才能はすぐに開花しました。そして実力が認められた彼は17歳で地元のプロチームでプレーするようになり、すぐに頭角を現すようになりました。彼がプレーする間チームはユーロリーグで3連覇を成し遂げ、クーコッチは2年連続でユーロリーグファイナルMVPに選出されました。そして1993年にもユーロリーグファイナルMVPを受賞したクーコッチはその得点能力とアシスト能力が高く評価され「White Magic」と呼ばれるようになりました。
クーコッチがヨーロッパで活躍している間、ジョーダンの出現によって急速にグローバル化が進んだNBAではクーコッチという才能が注目されており、いち早くその可能性に目を付けたブルズは彼を1990年にドラフトしていました。彼は1993年までユーロリーグでプレーし続けましたが、1993~1994シーズンからついにNBAに挑戦することになりました。211㎝の高身長ながら、外からも中からも得点を取ることができるクーコッチは1年目のシーズンをSFのピッペンとPFのホーレス・グラントの控えとしてプレーすることになりました。このシーズンの3PT率は低かったですが要所ではしっかりと得点できていたクーコッチは平均10.9得点を記録してオールルーキー2ndチームに選出されました。1年目にプレーオフに出場したクーコッチはルーキーながらユーロリーグで経験を豊富に積んでいたこともあり重要なピースとして活躍することができました。カンファレンス・ファイナルのニックス戦での第3戦、試合時間1.8秒のゲームウィニングショットを任せられたクーコッチはフェイダウェイで決めきりチームを勝利に導きました。最終的に最終7戦でシリーズに敗退してしまいましたがクーコッチのプレーヤーとしての有用性と自分の仕事を完ぺきにこなす能力はこの1年目シーズンで証明されました。
プレーオフを終えてからのオフシーズンにスターターPFのグラントがマジックへ移籍したことをきっかけに、1994~1995シーズンにクーコッチはスタメンとしてプレーしました。クーコッチはこのスターターへの昇格によってプレータイムが1.3倍に増え、その結果平均15.7得点4.6アシスト5.4リバウンドを記録しました。この平均得点、アシスト、リバウンドはピッペンに次ぐ3番目の数字であり2年目プレーヤーとしてクーコッチは大きくチームに貢献できていました。1993年からチームはジョーダンを失っていましたが、3月に彼がチームに復帰することが発表されブルズの来る年での復活が期待されるようになりました。
シックスマンとしての活躍~3連覇後のキャリア
そして迎えたジョーダンの復帰2年目のシーズンの1995~1996シーズン、ピッペンとクーコッチのみでは不足していた得点力と爆発力をジョーダンの復帰によってブルズは本調子を取り戻しました。また、史上最高のリバウンダーの1人であるロッドマンを獲得しておりBIG3を結成して圧倒的な強さを見せつけていました。そしてクーコッチはこのBIG3を支える優秀なベンチプレーヤーとしてチームに貢献し続けることになりました。このシーズン、クーコッチはベンチプレーヤーながらジョーダンとピッペンに次ぐ平均13.1得点でチーム3番目のスコアラーとして活躍し、シーズン終了後にシックスマン賞を受賞しました。この年、シックスマン賞を受賞したクーコッチの安定したベンチからのパフォーマンスに助けられ、ブルズは当時史上最高勝利数だった72勝を記録してプレイオフに進出し破竹の勢いでチーム史上4回目、クーコッチにとっては初めてのNBA優勝を成し遂げました。この優勝でクーコッチはシックスマン賞を受賞した同シーズンにNBA優勝を成し遂げた4人の選手のうちの1人(マクヘイル、ウォルトン、ボビー・ジジョーンズ、クーコッチ)になり、歴史に名を刻みました。
そしてこの年を始まりとしてクーコッチはシックスマンとしてチーム3番目のスコアラーとして活躍し続け、3連覇を成し遂げることができました。
ブルズでの3連覇を達成した1997~1998シーズンのオフにジョーダンは2度目の引退を表明しピッペンはロケッツへトレードされ、王朝は完全に解体されてしまいました。クーコッチはジョーダンとピッペンを失いましたがそのおかげでチームトップのスコアラーとして活躍することができ、1998~1999シーズンに自身キャリアハイの平均18.8得点を記録しました。自身の能力は申し分ないものであることを証明したクーコッチでしたが、やはり1番活躍できる使われ方はチームの2,3番手であったクーコッチはシクサーズにトレードされました。
そしてここから彼はシクサーズからホークスへ、ホークスからバックスへトレードされ、NBAから引退しました。
まとめ
いかがだったでしょうか。クーコッチは王朝ブルズでシックスマンとして使われていた時期に最も個人として輝いていました。しかしながら、ジョーダンとピッペンがオフにチームを去った次のシーズンにスターレベルで活躍することができていたことを考えると、彼がもし初めからエースプレーヤーとして使われていればスーパースターとして優勝する彼を見ることができたかもしれないと思います。
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【チーム紹介】奇跡の優勝を成し遂げたベテランぞろいのチーム:2011年ダラス・マーベリックス
NBA史上トップレベルに価値の高い優勝を成し遂げたチーム
レブロンがクリーブランドを去ってドラフト同期のボッシュとウェイドと共にマイアミでBIG3を結成してNBAを支配しようとしていた最初のシーズンに彼らの約束されていたはずの優勝を奪ったチームのダラス・マーベリックス。この年の彼らは特に優勝するようなチームとして期待されてはおらず、もう一度同じシリーズをしたら負けるだろうと言っているファンが多いチームでした。ではなぜ2011年のNBAチャンピオンのマーベリックスは優勝することができたのでしょうか。今回は2010~2011シーズンのマーベリックスについて紹介していきます。
プレイオフに苦しんだ数年間~ベストな相棒の獲得
ノビツキーが本格的にスタートして活躍するように2000~2001シーズンからマーベリックスは安定してプレイオフに出場していたものの、2006年のNBAファイナル出場を除くと2回戦を突破できたのはたったの1回でした。チームにはノビツキーというオールNBAチームに選出されるような選手がいながらも、プレイオフで思うような結果を残すことができていなかったことをうけて2007~2008シーズンにはベテランPGのキッドをチームに呼び戻しました。このシーズンにチームはFAでケビン・ガーネットを契約するプランを組んでいましたがそれはうまくいかず、プレイオフでは1回戦でホーネッツにスウィープで敗退してしまいました。そしてこの敗退から2年間マーベリックスはプレイオフでまたしても期待外れの結果に終わり、ノビツキーへの過剰な負担を軽減することができるもう1人のスター選手の獲得が求められました。
そして迎えた2010~2011シーズン、ノビツキーはマーベリックスと4年契約を結びました。6月上旬にレブロン、ウェイド、アマレ・スタダマイアーのうち1人ををFAとして獲得しようとしていたマーベリックスはその計画を断念したのちに、ノビツキーをインサイドディフェンスで支えることができるタイソン・チャンドラーをトレードで獲得しました。チャンドラーはオフェンス面でそこまで大きなインパクトを残すような選手ではありませんでしたが、先に述べたように体を張ったディフェンスと高いブロック能力を活かしたディフェンシブアンカーとしてノビツキーのディフェンス面での負担を軽減することが期待されていました。
この補強が想像以上にチームにフィットしマーベリックスはシーズン最初の29試合を24勝5敗で終えましたが、12月27日にノビツキーは膝を負傷してしまいました。さらに不幸なことにチーム2番目のスコアラーのカロン・バトラーが4日後にシーズン全休となるケガを負ってしまいマーベリックスは次の9試合で2勝7敗の記録で終えてしまい、シーズンに暗雲が立ち込めました。
ノビツキーの復活~プレイオフでの躍進
ノビツキーがいない間チームは低迷していきこのままズルズルいってしまうように思えましたが、ノビツキーは9試合の欠場の後に復帰し、チームはすぐに調子を取り戻しました。オフェンス面でもそこそこの強さを持っていましたが、彼らの強みはこの年オールディフェンシブ2ndチームに選出されたチャンドラーを中心としたディフェンスにあり、彼らのディフェンスはリーグでも有数の評価を受けていました。しかし、長年のライバルであるスパーズとのレギュラーシーズン中の戦いには敗れてしまい3位シードとしてプレイオフに進出したマーベリックスはプレイオフで世間の予想を上回る躍進を遂げることになりました。
プレイオフ1回戦、ファンの多くは6位シードのブレイザーズがマーベリックを破ると予想していましたが彼らは6戦でシリーズを終えて2回戦へ進出しました。2回戦では、ディフェンディングチャンピオンのレイカーズと対戦することになり、このシリーズが初めてのノビツキー対コービーのプレイオフシリーズとなりました。このシリーズは7戦までもつれるような接戦となると思われていましたが、ノビツキーの爆発的な活躍とこのシーズン終了後にシックスマン賞を受賞したジェイソン・テリーが当時のプレイオフ記録の9本の3PTを沈めるなどの活躍でマーベリックスがスウィープで勝利しました。2006年ぶりに到達したカンファレンス・ファイナルの舞台でマーベリックスは、チームとして対照的な若手軍団のOKCサンダーと対戦しました。1戦こそサンダーの若さゆえの勢いの前に落としてしまいましたが、キッドの経験豊富なゲームコントロールによって5戦でサンダーを片付けたマーベリックスはついにNBAファイナルへ進出することができました。
ノビツキーの最強のNBAファイナルでのパフォーマンス~切望し続けた優勝
長い戦いと周囲の過小評価を乗り越えてたどり着いたNBAファイナル、相手はBIG3のヒートでした。ここまで周囲の期待を良い意味で裏切ってきたマーベリックスでしたが、さすがにBIG3のヒートには敵わないと思われており、またしても過小評価を受けていました。1戦目を84対92で落としたマーベリックスには明らかに得点力が不足しており、この状況を打破するためにノビツキーはと頼れるシックスマンのテリーにその役割を任せました。ノビツキーはこの1戦目でインフルエンザのような症状を抱えており、そういう意味でもノビツキーのバックアップは強く望まれていました。そうして迎えた第2戦、第4Qでマーベリックスは73対88の15点差を追いかける展開に陥っていましたがここから彼らは22対5のランを作ってシリーズをタイに戻すことができました。この後、3戦目ではノビツキーはゲームウィニングショットを落として負けてしまいましたが反対に4戦目では何本ものビッグショットを決めてシリーズを2勝2敗まで引っ張りました。第5戦ではこの試合からスターター起用されたJ.Jバレアが17得点、キッドが13得点、Jテリーが21得点と得点面でチームを牽引して勝利を収め、優勝を決める6戦目ではバレアが15得点、テリーが27得点とノビツキーと共にチームを背負いチームワークでヒートのBIG3を上回ったマーベリックスは、最高のアンダードッグストーリーの1つと呼ばれることになるNBA制覇を成し遂げることができました。
まとめ
いかがだったでしょうか。このプレイオフファイナルでノビツキーはチームリーダーとして26.0得点9.7リバウンドを平均してチームの優勝の原動力となりましたが、それ以外にもテリーが平均18.0得点、バレアがスターターに昇格してから平均16得点とスター選手以外が大きな活躍を残しチームとして優勝を成し遂げることができました。歴史を見てもこの年のマーベリックスを超えるようなチームとしての優勝は数少ないですし、将来的にも中々見られることはないと思います。
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【選手紹介】ダンクの父:ジュリアス・アービング(3/3)
NBAでも達成できた優勝
前回の記事ではNBAに活躍の場を移したアービングが個人としてMVPを獲得したりオールNBA1stチーム入りを達成したりと、ABAと変わらない圧倒的なパフォーマンスを発揮していながらも優勝には手が届かなかった時期について紹介しました。セルティックスが再び王朝を築いたり、レイカーズのスーパーチームに敗れたりとタイミングに恵まれなかったアービングですが今回紹介するなかでついに優勝を成し遂げることになります。では今回はアービングの優勝を含んだキャリア最終期について紹介していきます。
最強の相棒の獲得~いきなりの優勝
1982~1983シーズン、シクサーズは優勝を本気で目指すために必要な戦力を補強することができました。それはセルティックスのマクヘイルとパリッシュ、レイカーズのカリームなどのインサイドプレーヤーに対抗できるセンターの獲得であり、チームは27歳にしてリーグを代表するセンターとして活躍していたモーゼス・マローンを獲得しました。そして史上最高クラスのフォワード&センターデュオを擁することになったシクサーズは65勝17敗とこのシーズンのリーグを支配してプレイオフ出場を決めました。彼らの強さは本物であり、ほとんどのチームが彼らを止めることができていませんでした。オールNBA1stチームに選出されたアービングと、シーズンMVPを受賞したマローンの名実ともに最強のコンビであった彼らを中心としたチームは近年で言うところのウォリアーズ王朝のような期待度の高さでプレイオフに入っていくことになりました。移籍後すぐにリーグ最高のデュオの1人として活躍していたマローンはチームの強さを強く信じていたため「fo-fo-fo」という歴史に残るようなインタビューを行い世間を騒がせました。「fo-fo-fo」とは当時のプレイオフは3回戦形式だったため、すべてのシリーズをスウィープで終わらせることを意味していました。実際のプレイオフでは1回戦をスウィープで突破しましたが、2回戦のバックス戦で1敗してしまいました。しかしその次のレイカーズとのNBAファイナルでは宣言通りのスウィープを果たし、アービングはマローンという相棒を獲得したことをきっかけについに優勝を成し遂げることができました。このシーズン、アービングはオールスターMVP、マローンはシーズンMVPとファイナルMVPを受賞しており1シーズンのMVP賞はすべてシクサーズの選手に総なめされていました。
時代の転換期~生ける伝説の引退
このいきなりの優勝の次のシーズン、アービングは33歳となり体力の衰えが見られるようになりました。身体能力は衰えていなかったのでそこまで有効性が落ちることはなかったのですが、彼のプレースタイルは身体能力で蹂躙するようなものから経験とスキルを活かした老獪なものに変わっていきました。オールスターゲームに出場してゲームハイの34得点を記録しましたが、アービングの変化はチームのパフォーマンスに大きく影響しており、シクサーズは50勝32敗まで成績を落としプレイオフでも1回戦で敗退してしまいました。
1985~1986シーズン、1984年のNBAドラフトでチャールズ・バークレーを獲得していたシクサーズはバークレーのプレータイムを増やすためにマローンをブレッツへトレードし、アービングとマローンのデュオは解体されてしまいました。このシーズンにはアービングのパフォーマンスは大きく下がっており、平均得点は20得点を切って18.1得点まで落ちていました。チームはバークレーを中心として再建に向かい始めており、年齢的にも限界を感じていたアービングは翌1986~1987シーズンをもって引退することを決心しました。
そして迎えた最後のシーズン、アービングは自身最低の60試合の出場に留まりましたがそれでも平均16.8得点を記録して、シーズン終盤にはキャリア通算30,000得点を達成しました。そして最後のプレーオフに出場したアービングは1回戦のバックス戦で敗退してしまい37歳でNBAから引退しました。
まとめ
いかがだったでしょうか。アービングは引退年に16得点以上を平均していることからもわかる通り長い期間にわたってその実力を維持できていた選手です。ABAだけでなくNBAでも優勝を成し遂げ、シーズンMVPも受賞することができたアービングは正真正銘のレジェンドであり1970年代から1980年代後半までのバスケットボールを支えた史上でも最も重要な選手の1人と言っても過言ではありません。
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【選手紹介】ダンクの父:ジュリアス・アービング(2/3)
ABAとNBAの両リーグでレジェンドとなった数少ない選手
前回の記事ではアービングがABAリーグで1年目から期待を超える活躍を残し、最終的にはわずか4年間のABAリーグキャリアの中で3度の得点王とシーズンMVPを受賞して最強の選手としてリーグを支配していた時期について紹介しました。そんなアービングはABAとNBAが合併して1つのリーグになることをきっかけにNBAリーグでプレーすることになりました。今回はアービングのNBAに入ってからのキャリア前半について紹介していきます。
NBA参戦~タイミングに恵まれなかった時期
ネッツ、ナゲッツ、ペイサーズそしてスパーズがNBAに参加した1976~1977シーズン、アービングはチームとの契約金の問題によりレイカーズやバックスなどのチームとの交渉の後シクサーズに移籍することになりました。
アービングは移籍後すぐにチームリーダーとなり、チームを50勝まで導きました。ダグ・コリンズ、ジョージ・マッギニス、ワールド・B・フリーなどの有力な選手たちと共にプレーして自分の役割が減り、アービングはABAにいたときよりもチームプレーヤーとして活躍することができるようになりました。プレーオフでも前年チャンピオンのセルティックスを倒してブレイザーズとのNBAファイナルに進み、先に2勝を取りました。しかし、ここからモーリス・ルーカスとダレル・ドーキンスの爆発的な活躍により逆転を許し優勝を逃してしまいました。NBAファイナルでは悔しい敗戦を喫しましたが、彼はシグネチャーシューズを作った初めての選手になったり、バスケ映画に出演したりとコート外での活動にも精力的でした。
そしてこの敗戦から数年間、アービングは彼には到底ふさわしくないチームメイトやコーチングスタッフに囲まれてプレーすることになり、個人としてはABAにいたときと変わらない活躍を残していましたが、優勝や成功に手が届くことはありませんでした。特に1979年にラリー・バードがリーグに入ってきてからというもののセルティックスが王朝として再びリーグを支配するようになっており、アービングは完全にタイミングに見放されていました。このバードとアービングのライバル関係はマジックとバードのそれと比べられるほどのものと見られていました。
勝利をつかむことができなかった2シーズン
1980~1981シーズン、アービングはやはりリーグで最高の選手の1人と数えられるほどの選手として活躍し、平均24.6得点4.4アシスト8.0リバウンド2.1スティール1.8ブロックを記録してNBAで最初で最後のシーズンMVPを受賞しました。輝かしい実績を残して挑んだこの年プレイオフでアービングは屈辱的な敗北を味わいました。イースタンカンファレンス・ファイナルでセルティックスと当たったシクサーズはシーズンMVPとなったアービングの勢いに引っ張られて破竹の勢いで勝利を積み重ねて3勝1敗のリードを持っていました。しかしここから第5戦と第6戦での2点差の敗北と最終第7戦での1点差での敗北を味わい大逆転でシリーズ敗退になってしまいました。
屈辱的なシリーズ敗退を食らった次のシーズン、アービングはリベンジを誓い平均24.4得点3.9アシスト6.9リバウンド2.0スティール1.7ブロックを記録して、2年連続のMVP受賞は逃しましたがオールNBA1stチームに選出されました。プレイオフではイースタンカンファレンス・ファイナルでセルティックスを7戦で破りリベンジを果たしましたが、NBAファイナルではマジック、カリーム、ジャマール・ウィルクス、マイケル・クーパー、ボブ・マカドゥーなどのスター軍団のレイカーズに6戦で敗れやっとつかんだ優勝チャンスを逃してしまいました。
まとめ
いかがだったでしょうか。アービングはABAからNBAに入ってからも環境の変化などに影響されずに高い実力をそのまま維持し続けることができた数少ない選手と1人です。彼は個人としてNBAでもABAと同じように支配的な活躍を続けましたが、タイミングやチーム環境に恵まれず、プレイオフでは惜しいところまで行きながらも負けてしまっていました。次回は有力な相棒を得てついに優勝することができたアービングのキャリア最終期について紹介していきます。
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お知らせ
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【選手紹介】ダンクの父:ジュリアス・アービング(1/3)
「ダンクの父」と呼ばれるレジェンドのキャリア
マイケル・ジョーダンがあこがれた選手として、そして伝説のベースラインムーブで今でも高い人気を博しているNBAレジェンドのジュリアス・アービング。彼のキャリアにはMVPやNBA優勝など数多くの栄冠がありますが、彼をレジェンドにしているのはその功績だけではなくやはり数々の記憶に残るプレーでしょう。今回はそんな記録にも記憶にも残るダンクの父、ジュリアス・アービングのキャリアについて紹介していきます。
大学時代~スクワイアーズとの軋轢
マサチューセッツ大学に入学したアービングは大学2年間のシーズンで26.3得点20.3リバウンドを平均し、NCAAの歴史の中で6人しかいない20得点20リバウンドを平均した選手の1人になりました。そして1971年にプロバスケットボール選手としてのキャリアを歩もうとドラフトエントリーを決心しましたが、当時のNBAでは高校卒業後から4年経っていない選手がプレーすることができないルールがあったため、その制限がないABAリーグでプレーすることになりました。
ABAのバージニア・スクワイアーズに加入したアービングはルーキーながらすぐにそのダンクで名を轟かせることになりました。アービングがABAに入ったこの年に都合よくダンクが解禁され、アービングはそのダンク能力を余すことなく発揮しました。1年目のシーズンを27.3得点4.0アシスト15.7リバウンドを平均したアービングはオールABA2ndチーム選出を受け、新人王にも輝きました。プレイオフではチームを東地区の決勝まで導きましたがその年ABAファイナルまで進出したニューヨーク・ネッツに敗北し、新人シーズンを終えました。
そして迎えた1972年、この年アービングはついにNBAドラフトにエントリーすることができるようになり、ロバートソンとカリーム率いるバックスは彼を12位指名でドラフトしました。しかしアービングはドラフト前にNBAのホークスと契約を結んでおり、この契約が原因でアービングはスクワイアーズ・バックス・ホークスの3チーム間のいざこざに巻き込まれることになりました。しかし結局、裁判所の判決によりアービングはスクワイアーズでしかプレーすることができないことになりました。この問題と判決はアービングとチームの不仲を促進させることになり、アービングは2年目シーズンを終えたときにニューヨーク・ネッツに契約を売却されてネッツの一員になりました。
ネッツへの移籍~最初で最後のABA優勝
スクワイアーズは経済的に不安定なチームであり、3チーム間の契約の問題を解決できるような状況にはなく、アービングへの不信感を募らせていたこともあり彼の契約をネッツへ売却してしまいました。ルーキーシーズンからずっとスターとして活躍していたアービングが下手をするとNBAのチームへ行ってしまうリスクもありましたが、スクワイアーズはなんとかネッツとの交渉を成功させてリーグの顔を失うことを防ぎました。アービングはこの移籍がきっかけで、ABAの歴史上で最も重要な選手と呼ばれるようになりました。1シーズン目に27.4得点5.2アシスト10.7リバウンドを平均したアービングは前年30勝54敗に落ち込んでいたチームいきなり55勝29敗まで導きました。2年連続で得点王になり、シーズンMVPにも輝きました。プレイオフではユタ・スターズを破って初優勝を成し遂げ、ファイナルMVPも受賞しました。
次のシーズンも平均27.9得点5.5アシスト10.9リバウンドを記録したアービングは2年連続でシーズンMVPを受賞してチームを58勝26敗まで導きました。2年連続MVP受賞の勢いのままにプレーオフに挑みましたが、この年はスピリッツ・オブ・セントルイスに敗れてしまいました。
そして迎えたABAリーグ最後のシーズンの1975~1976シーズン、ABAはNBAと合併することが決まっておりNBAに活動拠点を移し、ABAを去るチームが多く現れました。そんな激動のリーグでアービングは平均29.3得点5.0アシスト11.0リバウンドを記録して3度目の得点王とシーズンMVPに輝きました。この年アービングは初めて開催されたスラムダンクコンテストに出場しジョーダンと同じようなレーンアップを決めてコンテスト優勝を決めました。プレーオフではマイケル・トンプソン擁するナゲッツとのファイナルを制して2度目の優勝を果たしファイナルMVPを受賞しました。
まとめ
いかがだったでしょうか。アービングはジョーダンが憧れた選手として有名になるのも当然だと思えるほど今回紹介したABAリーグの4年間のみでも十分な達成度を誇る選手です。昔の選手としては数少ないスキルフルな選手であり、それでかつ身体能力がずば抜けていた彼のプレーには華があり、多くのファンが魅了されました。
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【選手紹介】薬物とアルコールによってキャリアが一変してしまったスーパースター:デビッド・トンプソン
時代最高の身体能力とセンスを持ったスーパースター
ブレイザーズのレジェンドであるビル・ウォルトンが「デビッド・トンプソンはジョーダンとコービーとT-macとレブロンを合わせたような選手だった」と評し、ジャンプ力の権化であるようなジョーダン本人には「垂直跳びの概念はデビッド・トンプソンから始まった」と言わしめるほどの身体能力と才能を誇ったナゲッツの永久欠番のデビッド・トンプソン。彼は1975年にドラフトされてナゲッツで一気にスターダムを駆け上がりましたが、当時のNBAを象徴する薬物問題に巻き込まれてキャリアを台無しにした選手です。今回はそんな激動の時代を生きたデビッド・トンプソンのキャリアについて紹介していきます。
偉大な大学キャリア~ABAとNBA両リーグからのドラフト指名
1973年にノースカロライナ大学を27勝無敗の成績に導いたトンプソンでしたが、この年ノースカロライナ大はトンプソンをスカウトしたことが発覚したためNCAAの規定によって大会に出場することが禁止されてしまいました。
しかしその翌年からその規定は適用されなくなったため1974年にトンプソンは再びチームを30勝1敗に導いて1位シードでNCAAトーナメントに出場しました。準決勝戦でトンプソン率いるノースカロライナ大は2回の延長戦を含む激戦を制して前年チャンピオンのUCLAを破り、決勝戦ではマーケット大学を76対64で降して優勝を果たしました。そしてこの試合で驚異的なジャンプ力を披露していたトンプソンには「Skywalker」という通り名がつけられ、アリウープなどの空中戦の概念はトンプソンによって作り出されノースカロライナ大学で初めて試合に取り入れられるようになりました。
NCAAトーナメントで優勝したノースカロライナ大は当時大学バスケ界最高の大会と称されたACCトーナメントにも出場し決勝戦でメリーランド大学と対戦しました。メリーランド大はFG63%という確率でシュートを沈めていましたが、試合は103対100でノースカロライナ大の勝利に終わり、トンプソンはジョーダンやラルフ・サンプソンなどの選手たちと並んでアトランティックカンファレンス史上最高の選手の1人として数えられるようになり、トンプソンの着ていた44番は大学の永久欠番になりました。そして大学でプレーした3年間通算で平均25得点8リバウンド以上を記録したトンプソンはその実力が評価され1975年のABAとNBAドラフトで2チームから1位指名を受けましたが、そのチームとは契約をせずABAのデンバー・ナゲッツを契約を結びました。
圧倒的な新人シーズン~多くの問題によるトレード
彼はプロとしてのキャリアをNBAではなくABAでスタートさせ、彼は1年目からその身体能力と得点能力を活かして活躍しました。83試合に出場し平均26.0得点3.7アシスト6.3リバウンド1.6スティール1.2ブロックを記録したトンプソンは「ダンクの父」と呼ばれたジュリアス・アービングとABAオールスターゲームのスラムダンクコンテストで競い合い、負けはしたもののオールスターゲームのMVPに選出されました。当然のように新人王を受賞しましたが、このときNBAで新人王を受賞したアルバン・アダムズがトンプソンにABAに行ってくれてありがとうと感謝をしたことが語り継がれるほどトンプソンは大きな衝撃を残しました。
トンプソンはABAとNBAが合併して現在のNBAになった1976年から4年間連続でナゲッツからオールスターに選出され、確実にスーパースターとしての地位を得ていました。しかしこの期間に彼のキャリアは少しずつ歯車がずれていくことになります。
まず1977~1978シーズン、トンプソンは5年契約をナゲッツと結び、このシーズンの4月のピストンズ戦で73得点を取りこの年の得点王に輝くなど順調な新契約のスタートを切りました。
しかしながら、契約を結んでからの3年目シーズンの1979~1980シーズンに足のケガが原因で31試合の欠場することになりました。それでも翌年のシーズンでは77試合に出場し平均25.5得点を残し、スター選手として奮闘していました。しかしその奮闘の中でかかるプレッシャーから逃れるために新人シーズンの時から使用していた薬物とアルコール依存、そして度重なるケガの影響が一気に出たかのようにトンプソンのパフォーマンスは落ち、1981~1982シーズンには平均得点が14.9まで下がってしまいました。そして薬物とアルコール、そしてケガと多くの問題を抱えるトンプソンをチームに残すことをためらったナゲッツは彼をスーパーソニックスにトレードしました。
トレード後のトンプソン~薬物に縛られたキャリア
スーパーソニックスにトレードされた1年目の1982~1983シーズン、スーパースターとしての自分を失ったトンプソンはプレッシャーが減りついに薬物からの脱却を図り始めました。この年は平均得点を少し回復させ、15.9得点を残し4年ぶりのオールスターに選出されました。そうして復活の兆しを見せたトンプソンでしたが1983~1984シーズン、マンハッタンのクラブで泥酔した彼は階段から転落し左膝に大ケガを負いこのシーズン限りリーグに帰ってくることはできませんでした。
そして30歳を迎える前の元スーパースターは引退を余儀なくされ、ホーネッツの地域部門の部長に就任しましたがやはりここでも薬物が問題となり解雇され、彼のキャリアは薬物に振り回され続けたものでした。
まとめ
いかがだったでしょうか。トンプソンは薬物やアルコール依存さえなければ本当にジョーダンに並ぶレベルの選手になる可能性を秘めていた選手だったと思います。現在の彼はキリスト教信者となり薬物を完全に絶って、2003年にノースカロライナ州立大学に戻って社会学の学位を取得して社会に復帰しています。バスケットボールを薬物などで乱したことによって殿堂入りをすることができないだろうと思いますが、もっと多くの方に知ってほしい選手の1人です。
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