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【選手分析】スロベニアの神童 ルカ・ドンチッチは何がすごいのか?

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ルーキーシーズンからNBAのトップレベルを駆け抜けるルカのすごさ

現在、ダラス・マーベリックスで同じくヨーロピアン選手のクリスタプス・ポルジンギスと共にプレーしているドンチッチ。彼はNBAに入ってきたその年にいきなり平均20得点以上を記録した数少ない選手の1人として歴史にその名を刻み、2020年と2021年のプレイオフで2年連続でクリッパーズと激戦を繰り広げました。そのプレイオフでも記憶に残るようなプレーの数々を披露し、間違いなく将来のNBAを背負う存在です。今回は彼のキャリアの紹介ではなく、彼がなぜここまでの選手としてNBAで活躍することができているのかについて分析していきたいと思います。

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ドンチッチのプレー面以外での強み

彼はバスケットボールの実力面ですでにリーグトップ10に入るような選手として圧倒的な存在ですが、彼の強みはそのプレー以外にも如実に表れています。

まず彼の1番の魅力であり1種の強みでもあるのが彼の人間性です。彼はヨーロッパ出身の選手によくみられる温厚な性格の持ち主です。しかし彼が普通のヨーロピアン選手と違うところはまだまだ若い現時点で試合中に吠えたり、相手選手のプレーに対して不満を示すことができるという点です。NBAというアメリカの文化が強く反映されているスポーツリーグでは、アメリカンカルチャーに順応できない選手は活躍することがかなり難しくなっています。歴史を振り返ってもヨーロッパから大きな期待を背負ってNBAに挑戦した選手の中でも、アメリカという国になじむことができずにNBAからリタイアしてしまった選手は多くいます。ドンチッチはNBAに入ってきた時から自信のあるプレーをしていましたし、ハイライトプレーの後に声を張り上げたり、審判のジャッジや相手選手のプレーに対して反論したりすることができておりアメリカのカルチャーに早くも順応することができていると思います。

2つ目の彼のプレー以外での強みはそのリーダーシップです。彼は19歳の若さでユーロリーグでMVPを獲得した選手ですが、NBAでもその実力を存分に発揮しています。しかし、ドンチッチの実力が最大限生かされているのは彼がチームの中心となってボールを触ることができているからでしょう。マーベリックスのオフェンスはルカのドライブやパスからスタートすることがほとんどであり、彼のボールコントロールが必須です。彼がここまでボールタッチを得ることができているのは彼のリーダーシップが優れており、監督陣や他のチームメートにもルカにボールを預けて大丈夫だという信頼を勝ち取ることができているという証拠でしょう。

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ドンチッチのプレー面での強み

彼のセンスあふれるプレーには多くのファンが魅了されており、バスケットボールをしたことがある人であれば彼のプレーがどれほど異次元のものであるかが理解できると思います。今回は彼の数多くある強みの中でも特にドンチッチをリーグ最高レベルのプレイヤーに押し上げているものについて紹介していきます。

1つ目の強みは彼の冷静さです。彼は同じスロベニア出身のゴラン・ドラギッチと同じようにペイント内に入った後の判断能力に優れています。彼はスクリーンを使った後にディフェンダーを背中に背負う「ジェイル」という技術を多用しますが、そのジェイル中に周囲の状況を判断してパスをするのかシュートを打つのかドライブを続けるのかを決断する能力がリーグトップクラスで優れています。ジェイルの他にはドライブ中にディフェンダーに囲まれたときのパス判断や、ベースラインやサイドライン付近に追い込まれたときに慌てることなくパスを捌くことができる落ち着きが彼のプレーを支えています。

2つ目はそのスキルレベルの高さです。ドンチッチはすでに彼を象徴する技を持っています。そのスキルとはステップバックシュートであり、彼のステップバックはハーデンのそれとは違いますが止めることが難しい技の1つとしてリーグ屈指のスキルになっています。さらに彼はフローターシュートをすでにマスターしており、1つ目の強みで紹介してジェイル後の選択肢として相手のビッグマンを超えるようなフローターを打つこともあります。また、自分で得点を取るためのシュート能力やステップスキルだけではなく、味方の得点を生み出すためのパス能力にも優れており、2019~2020シーズンには8.8アシストを平均しています。彼のパス能力は卓越したハンドリング技術から生み出される予想外のパスや、PGとしては高い身長による視野の広さを活かしたパスによって支えられています。

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ドンチッチの弱み

ここまでドンチッチの強みだけにフォーカスして紹介してきましたが、彼は現時点ではレブロンほど万能な選手ではなく明らかに弱みとして捉えられているものがあります。

1番の大きな弱みは彼のディフェンス能力です。決して弱いディフェンダーというわけではありませんが、圧倒的な1番手の選手としてはディフェンス力がかなり低いです。オフェンスで彼の負担がかなり大きいのでディフェンスでも頑張れというのは酷かもしれません。しかしいずれマブズが完全な優勝候補となった時にドンチッチのディフェンス力が今のままであれば、それは1on1が時に重視されるプレイオフではチームにとって致命傷になりかねません。

2つ目は弱みというよりもドンチッチに対する不安要素と言った方が正確かもしれませんが、彼は少しケガをしやすい体質であるかもしれないということです。最近では特に2020年のケガが記憶に残っており彼はシーズン途中に足首のケガで欠場をしており、プレイオフでもそのケガを抱えて戦っていました。そして今シーズンの11月にもナゲッツ戦で接触によってまたしても足首をケガしてしまいました。ここからわかるように彼は足首のケガを負いやすいことが予想され、関係ないかもしれませんが後々ステップを駆使する彼のプレースタイルに影響してくることをあるかもしれません。

まとめ

いかがだったでしょうか。今回はドンチッチの強み弱みについて紹介しました。彼は明らかに今後のNBAを背負っていく存在であり、彼には大きな期待がかかっています。弱みの点でも紹介しましたが、特に足首のケガに気を付けて長い期間にわたってベストプレーヤーの1人としてリーグを支配してほしいと思います。

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【選手紹介】2000年代前半を代表するピュアシューター:ペジャ・ストヤコビッチ(2/2)

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キャリアの最終期に優勝を成し遂げた史上レベルのシューター

前回の記事ではギリシャリーグでエリートな選手として実績を重ねたペジャがNBAに入ってきた時からショータイムと呼ばれたキングスを支える重要なシューターとしてリーグに実力を轟かせたのちにキングスを去ることになったところまでについて紹介しました。今回はキングスを去ってからキャリア最終年に優勝を成し遂げるまでのペジャのキャリアについて紹介していきます。

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ペイサーズへのトレード~第二のキャリア

2006年1月26日のトレードでペイサーズに移籍することになったペジャは8年間過ごしたキングスを去ることになってしまいました。しかし移籍先のペイサーズもキングスと同じく強豪の地位に長年つきながらも優勝をつかむことができていなかったチームだったため、ペジャの加入がチームを押し上げることになると多少の期待が集まりました。トレード後40試合に出場したペジャは平均19.5得点1.7アシスト6.3リバウンドを記録し、チームはプレイオフに出場しました。しかしプレイオフではペジャは1回戦のうち4試合を欠場してしまい、途中から復帰することができましたが、2勝4敗で敗れてしまいました。そしてそのままFAとなった彼は第二のキャリアをホーネッツでスタートさせることになりました。

2006年のオフシーズン中にホーネッツと5年契約を結んだペジャはキングスにいた時以来の司令塔のクリス・ポールと共にプレーすることができました。彼のアシスト能力とプレーメイキング能力はペジャの効率の高いシュートチャンスを作り出しており、移籍1年目からペジャはその得点能力を発揮しており、11月のボブキャッツ戦でキャリアハイの42得点を記録しました。非常に調子が良いスタートを切ったペジャでしたがこの年はケガによって最初の13試合のみの出場に留まりました。

そして迎えた翌シーズン、ペジャはケガから完全に復活し77試合に出場して3PT44.1%の高効率で16.4得点1.2アシスト4.3リバウンドを平均しました。そしてこの年、安定したペジャの活躍と平均得点をついに20得点台に乗せたデビッド・ウェストとポールに牽引されてホーネッツはフランチャイズ最高の56勝を記録してプレイオフに出場しました。安定した核がそろっていたホーネッツはダークホース優勝候補として見られていましたが、ダンカン・ジノビリ・パーカーのBIG3擁するスパーズに第7戦までもつれる激戦の末に敗れてしまいました。このスパーズ戦でペジャは3PTを47.8%で決めていましたが、得点面では12.9得点と大きくパフォーマンスを落とし、チームが敗北した一因になっていました。

そしてその後のシーズンもホーネッツはポール・ペジャ・ウェストの3人を中心としたチームで勝利を追い求め続けましたが、ディフェンシブアンカーとしてBIG3を支えていたタイソン・チャンドラーがマーベリックスにトレードされてしまったことでチームは再建に動き出し、その動きの中でペジャもラプターズに放出されまたしても優勝を逃してしまいました。

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下火になり始めたキャリア~ついに手に入れたチャンピオンリング

そうしてホーネッツから放出されたペジャはラプターズにトレードされましたが、ラプターズでは左膝のケガによって26試合を欠場しわずか2試合の出場で解雇されてしまいました。

この時点で33歳になっており、元の身体能力が低かったためさらにその衰えが顕著に見えていたペジャを獲得しようとするチームはいないように思えましたが、マーベリックスがペジャにチャンスを与えました。

2011年の1月24日、マブズはラプターズから解雇されFAとなっていたペジャに最後のチャンスを与え、彼と契約を結びました。ペジャのパフォーマンスはキングスやホーネッツで見られたようなものではなくなっていましたが、彼のシュート力だけは落ちることがなく、この年ベンチから出てくるシューターとして使われたペジャはベテランになったキッドの老獪なプレーメイキングによって、33歳ながらそのシュート力を存分に発揮して3PTを40.0%の確率で沈めました。そしてプレイオフでも19試合に出場して18.4分の出場でFG46.5%、3PT37.7%で7.1得点と確実にチームに貢献しついに優勝を成し遂げることができました。

まとめ

いかがだったでしょうか。現代でもクリス・ポールやジェームズ・ハーデンなど実力がありながらもチームに恵まれずに優勝を達成できていない選手が多く存在します。彼らとペジャを全く同じレベルの選手として比較して話をすることはできませんが、それでも最後まで自分の可能性に挑み続けて最終的に優勝を成し遂げたペジャの功績は称えられるべきだと思います。

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【選手紹介】2000年代前半を代表するピュアシューター:ペジャ・ストヤコビッチ(1/2)

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2000年代前半のキングスを支えたもう一人のピュアシューター

2000年~2010年頃までのシューターと言えばレイ・アレンがまず話題に上がると思います。しかし、彼以外にもう一人優秀なシューターを挙げるとすればそれはほとんどの人がペジャ・ストヤコビッチを挙げると思います。彼はアレンはボストンに移籍するまでのチームではシューターというよりもシュートの得意なスコアラーという役割を務めていましたが、ペジャはNBAに入った時から引退するまでシュートを武器にして戦い続けた正真正銘のシューターです。今回はそんなペジャのキャリアについて紹介していきます。

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ギリシャリーグでの活躍~NBAへの挑戦

ペジャはユーゴスラビア(現クロアチア)で生まれ、戦争が原因で一家全員でベオグラードに引っ越したことがきっかけでバスケットボールに出会いました。レッドスター・ベオグラードのシニアチームで2年間プレーしました。しかしバスケットボールを始めたばかりの選手がすぐに活躍できるほど甘い世界ではなく彼は39試合でわずか2.9得点しか平均することしかできませんでした。

そして環境を変えようと考えたのか16歳でペジャはギリシャへ引っ越し、1年後にPAOKテッサロニキのバスケチームでプレーし始めました。彼はギリシャリーグで5年間プレーし、最後のシーズンに23.9得点2.5アシスト4.9リバウンド1.2スティールを平均するまでの選手に成長し、この活躍がNBAの目に留まりペジャ自身もNBAへの挑戦を決心しました。

1996年ドラフトで全体14位でキングスに指名されたペジャはキングスと契約を無ずぶことができず、1998年に正式に契約を締結しました。1年目と2年目をベンチプレーヤーとしてプレーし、2年目に24分弱のプレータイムで3PT37.5%で平均11.9得点を記録したペジャは3年目のシーズンについにスターターに定着しました。そして3年目のシーズン、ペジャは75試合すべてにスターターとして出場し3PT40.0%で平均20.4得点2.2アシスト5.8リバウンド1.2スティールを記録し、208㎝と身長が高かった彼はシューターとしてだけでなく、リバウンドでもチームに貢献することができるようになりました。その成長は周りの目に見えるほど大きなものであり、この年彼はMIP投票で2位になりました。

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初のオールスター~キングスでのラストシーズン

2001~2002年シーズン、チームのかじ取り役がエンタメ性の高いジェイソン・ウィリアムスから堅実な正統派PGのマイク・ビビーに変わったことでペジャは効率の高いシュートを打つチャンスが多くなりました。このシーズン彼はFG48.4%、3PT41.6%、FT87.6%と非常に高効率でシュートを沈め、平均21.2得点2.5アシスト5.3リバウンド1.1スティールを記録して2年連続でオールスターに選出されました。彼の強みは正確無比なシューティングにありましたが、アシスト能力にやや難があり彼は単なるシューターに過ぎないという批判が当時からありましたがそれでも2年連続でオールスターに選出された彼の実力は本物でした。この年のプレイオフはキングスにとって1番のチャンスだった年であり、彼らはカンファレンス・ファイナルまで進みましたが疑惑の判定によってレイカーズとの最終第7戦で敗れてしまい最強の優勝できなかったチームと呼ばれることになってしまいました。

翌シーズンは3PT%も40%以下になり、それに伴って平均得点も19.2得点まで下がってしまいました。しかし、リーグに彼以上のシューターと呼べるような選手はおらず、コービー、KG、AI、T-Macなどそうそうたる面々がそろったオールスターの1人としてキングズを共に支えたウェバーと共にプレーしました。また、この年のオールスターウィークで彼は3PTコンテストで優勝しており、正真正銘のリーグ最高のシューターの1人としての地位を確立することができました。プレイオフでウェバーと共に23得点以上を平均するハイパフォーマンスを残し、優勝することもできそうでしたが、マーベリックスに最終7戦で敗れてしまい、2年連続で優勝チャンスを逃してしまいました。

しかし2003~2004年シーズン、キングスとペジャにとって重大なことが起こりました。それは絶対的な中心選手のウェバーがシーズン終盤まで手術で出場ができなかったことでした。ウェバーの穴を埋めるためペジャは奮闘しキャリアハイの81試合すべてにスターターとして出場し、FG48.0%、3PT43.3%、FT92.7%で平均24.2得点2.1アシスト6.3リバウンド1.3スティールを記録しました。この年のペジャは選手として全盛期に入りかけの26歳であり、オールNBA2ndチームに選出され、さらにMVP投票では4位に入りました。シーズンの終盤にはウェバーが復帰しましたが、彼のパフォーマンスは以前のものとは完全に低くなっておりプレイオフでもまたしても2回戦で敗退しました。

翌年、ウェバーの年齢が31歳になったことで、キングスに残された選択肢は優勝のみとなりましたがこの年にペジャはケガで16試合を欠場してしまい平均得点では20点以上を記録したとはいえ3PT%が40.2%まで低下し、ケガを気にしながらプレーする光景が見られました。そしてペジャと相性が良かったウェバーは2月にトレードで放出されてしまいました。プレーオフでもそのケガの影響とウェバーの不在は響き、この年のプレイオフで彼は3PTを36.7%でしか決めることができませんでした。そしてキングスは1回戦で1勝4敗で敗れました。

ウェバーがトレードされ、最大限生かされることが難しくなったペジャはケガがパフォーマンスに影響していたこともあり2006年の1月下旬にペイサーズにトレードされキャリアの1番輝いた地であるキングスを去ることになりました。

まとめ

いかがだったでしょうか。ペジャはキングスでプレーしていた間は間違いなくリーグトップクラスのシューターとして活躍していました。相棒のウェバーがいなくなってからは少し選手としてのインパクトが薄くなったように思いますが、それでも平均20得点をアウトサイド中心のオフェンスで記録した彼のシュート能力は本物であり、3PT全盛の現代で彼がどのような活躍をするかを見てみたい選手の1人です。

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【選手紹介】レブロン以来の才能と呼ばれた悲劇のPG:ジョン・ウォール(2/2)

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リーグ屈指のPGとして東最強の座を取れたはずのスター選手

前回の記事では大学2年生のシーズンを終えてからウィザーズの将来を背負う選手になることを期待されて1位指名を受けたルーキーシーズンを経て、オールスターPGとしてチームを6年ぶりのプレイオフに導いたところまでを紹介しました。彼は確実に成長していきいずれはMVPレベルの選手になることが予想されており、その期待通りに成長していきました。しかしあるケガが原因で現在はスター選手と呼べない選手になってしまいました。今回はウォールの成長を見せたシーズンとオールNBAチーム入り、そしてケガによって狂っていったキャリアについて紹介していきます。

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頼れる相棒とベテランとの共闘~オールNBAチームシーズン

2014~2015シーズン、ウィザーズはネッツからセルティックスのレジェンドのポール・ピアースを獲得し、ウォールを支えることができるベテラン選手を得ることができました。ウォールはディフェンス力が高く、アシスト能力も得点力もある一流のPGでしたが唯一の弱点としてアウトサイドシュートが苦手ということが挙げられていました。ですがこの年は2012年にウォールの相棒として獲得したビールが3PT40%以上平均15.3得点を記録し、新しく獲得したピアースが約39%で平均11.9得点を取っており、ウォールのオフェンスの負担がかなり軽減されていました。2人のアウトサイドシューティングのおかげで生まれたスペースによってウォールのドライブとアシストが活かされ、ウォールはついに東のオールスターのスターターと、オールディフェンシブ2ndチームに選出されました。そしてこの年のウィザーズは46勝36敗の勝率を記録して2年連続でプレイオフに出場し、1回戦ではラプターズをスウィープしましたが、2回戦で若いホーフォードを中心とした「ヤングホークス」に2勝4敗で敗れウォールとウィザーズのブレイクアウトシーズンは終わってしまいました。

そして迎えた2015~2016シーズン、移籍1年目でチームの精神的な支柱として活躍していたピアースが引退してしまいまたしてもウォールの負担が増えることが懸念されていました。しかしながらピアースの引退と取って代わるようにオットー・ポーターがチーム3番目のスコアラーとしてブレイクアウトしウィザーズは若手中心に才能が集まる将来の強豪チームとして期待されるようになりました。ウォールを始めビール、ポーター、ゴルタット、マーキーフと優秀な選手が集まったチームでしたが、この年はチームとしてまとまったパフォーマンスを残すことができませんでした。ウォールも12月21日にキャリアハイの19アシストを残して12月の月間最優秀選手賞を受賞したや、2月5日に18得点10アシスト13リバウンドのトリプルダブルを記録したりと個人の活躍は錠お嬢でしたが、なかなか勝利をつかむことができず41勝41敗の東10位でフィニッシュしプレイオフ進出を逃しました。

惜しくもプレイオフ進出を逃した翌シーズン、ウォールは不甲斐ない敗戦の数々に奮起したのかすでに高かったパフォーマンスをさらに伸ばし、平均23.1得点10.7アシスト4.2リバウンド1.7スティールを記録してオールNBA3rdチームに選出されました。このシーズン、ウォールはオフシーズンの両ひざの手術から復帰したシーズンだったこともありパフォーマンスが落ちてしまうことが懸念されていましたがその心配をよそに、11月21日に15アシスト3ブロックを、12月6日には52得点8アシストを記録してむしろ成長してシーズンに挑んでいました。49勝33敗の4位シードとしてプレイオフに進出し、1回戦では因縁のホークスとの対戦になりました。ウォールは第1戦で32得点を記録し、第6戦では42得点でホークスを破ってリベンジを果たしました。しかし次の2回戦ではセルティックスに最終第7戦で惜しくも敗れウィザーズはプレイオフから姿を消しました。

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ケガによって狂った将来図~スターダムを転がり落ちた後のシーズン

カンファレンス・ファイナルを惜しくも逃した昨シーズン、敗れたとはいえウォールはオールNBA選手となり、ビールもオールスター一歩手前の選手として成長しポーターも順調に成長していました。そしてチームはその中心選手のウォールと4年170ミリオンの延長を結びました。しかしこのシーズン、ウォールは1月末から3月末までの2か月を膝の手術によって欠場し、何とか進出したプレイオフでも1回戦でラプターズに敗れてしまいました。

そして翌年、ウォールは32試合に出場して20.7得点8.7アシスト3.6リバウンド1.5スティールを平均したのちに左踵を負傷したウォールは手術を受けました。しかし不幸なことにその手術で行った切開によって感染症にかかってしまい、感染症からの復帰をしようという時に自宅で滑ってしまいアキレス腱を断裂してこのシーズンと翌シーズンを全休することが確定してしまいました。

そしてようやく復帰することができた2020~2021シーズン、彼はロケッツにユニフォームを着てコートに帰ってきました。ウォールがいない間チームは完全にビールのものとなっており、大ケガから復帰するウォールを信じ切れなかったウィザーズは彼をウェストブルックとトレードしたのでした。このシーズン彼は2年ぶりの復帰にもかかわらず、40試合で平均20.6得点6.9アシスト3.2リバウンド1.1スティールとオールスター手前くらいのパフォーマンスを残しましたが、彼は再建チームでプレーすることを拒み現在はプレーしていません。

まとめ

いかがだったでしょうか。ウォールはケガがなければ間違いなくウィザーズで強豪チームを作り上げていたでしょう。起こってしまったことは仕方ないことですが、できるならケガをしていないウォールを見たかったです。彼は今でもそこそこのチームのスターターを張れるほどのパフォーマンスを残すことができると思うのでできれば6~10シードくらいのチームでプレーしてほしいなと思います。

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【選手紹介】レブロン以来の才能と呼ばれた悲劇のPG:ジョン・ウォール(1/2)

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2010年代最強のPGになっていたはずの元スーパースター

ジョン・ウォールと言えばウィザーズで活躍していたころにはオールスター常連の選手としてチームを優勝に導く選手として大きな期待をかけられていたスター選手でした。しかし、2017年に大型契約を結んだ時から彼のキャリアは狂い始め、現在では若手中心の再建チームであるロケッツに所属しており試合に出ることを拒絶している状況になっています。今回は度重なるケガによっていきなりスーパースターダムを転げ落ちてしまったウォールの今までとこれからのキャリアについて紹介していきます。

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時代最高の才能として期待された大学時代~オールスターポテンシャルを見せつけた2年目

高校時代に大きく活躍したウォールは5つ星の選手としての評価を受けており、デューク大学やカンザス大学などの強豪校からリクルートを受けていましたが、最終的にはケンタッキー大学に進学することを決めました。彼はNCAAからお金を受け取っていたことを原因にエグジビションゲームとレギュラーシーズンの1試合出場停止を受けてしまいましたが、彼の才能と実力は初出場の試合で明らかになりました。彼は28分の出場でいきなり27得点9アシストを記録してチームを勝利に導きました。そのあともウォールの活躍は続き、マイアミ大学戦では残り0.5秒でゲームウィニングショットを沈めたり、ハートフォード大学戦では25得点11アシスト1ターンオーバーを記録したりと様々な記録を樹立しました。

このように大学で十分な活躍を残したウォールは2年の大学キャリアを過ごして2010年のNBAドラフトにエントリーしました。大学で見せた高い身体能力(ジャンプ力やスピード)と高いディフェンス力が評価され、レブロン以来の才能と呼ばれたウォールはサマーリーグで早くもその期待に応えることができました。23.5得点7.8アシスト4.0リバウンド2.5スティールを平均したウォールはサマーリーグMVPを受賞して前評判通りの大物ルーキーとしてレギュラーシーズンに挑戦しました。レギュラーシーズンでのデビュー戦のマジック戦では14得点9アシスト3スティールを記録し、11月10日の試合で初めてのトリプルダブル(19得点13アシスト10リバウンド)を記録しました。新人王は昨年ドラフトされましたがケガによって全休していたグリフィンによって取られてしまいましたが、オールルーキー1stチームに選出され、オールスターウィークのルーキーゲームではMVPを受賞しチームの将来を背負う若手として十分な結果を残してルーキーシーズンを終えました。

2011~2012シーズン、ウォールはロックアウトによって短縮された66試合すべてに出場して16.3得点8.0アシスト4.5リバウンドを平均しましたが、ルーキーシーズンから大きくスタッツは向上せずむしろ3PT%ではPGとしては異常に低い7%に終わりました。しかしウォールの身体能力は彼自身のシュート力不足を補って余りあるもので、この時点でリーグトップ10に入るレベルのPGとして活躍しており、彼がオールスターになるのも時間の問題だと確信するファンが大勢いました。

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3年目の躍進~初のオールスター選出

ウォールの2年連続の安定したパフォーマンスには多くの信頼と期待が寄せられていましたが、それらとは裏腹に2012~2013シーズンにウォールは膝のケガによって約半分を欠場し、49試合の出場に留まってしまいました。試合に出場する回数が少なく膝をケガしたことで復帰直後には少しパフォーマンスが低下していたウォールでしたが、3月中旬には週間最優秀選手賞を受賞するほどまで調子が戻り、同月22日のレイカーズ戦では24得点とキャリアハイの16アシストを記録して勝利しました。そして順調に調子を上げていったウォールは同月25日のグリズリーズ戦でキャリアハイの47得点8アシスト7リバウンドを記録しました。このシーズン彼は得点面でスタッツを向上させて、平均18.5得点7.6アシスト4.0リバウンドを記録してオールスターレベルの選手としての評価を受けるようになりました。

翌シーズン、ウィザーズのフランチャイズプレーヤーとして完全に定着したウォールは2013年6月31日に5年80ミリオンで延長契約を結びました。ウォールはその契約延長に応えるようにこの年にパフォーマンスを大きく向上させました。2014年1月上旬のセルティックス戦ではBIG3相手に28得点10アシスト11リバウンドを記録しましたが、ウィザーズにはウォール以外に頼れる選手がおらずこの活躍もむなしく111対113で惜しくも敗れてしまいました。しかし選手個人としては十分なパフォーマンスを残していたウォールはついにオールスターに選出され、スラムダンクコンテストにも出場しました。オールスターとしてキャリアの躍進を果たしたこのシーズン彼は19.3得点8.8アシスト4.1リバウンドを平均してチームを東の8位シードに押し上げ6年ぶりのプレイオフにチームを導きました。1回戦でウォールは中心選手として活躍し、平均18.4得点6.8アシスト4.6リバウンドを記録してブルズを破るという波乱を巻き起こしました。しかし2回戦のペイサーズ戦では打倒ヒートを掲げていたペイサーズに惜しくも敗れウォールの初オールスターシーズンは終わりました。

まとめ

いかがだったでしょうか。ウォールはNBAに入る時点でかなり完成された選手として評価されていましたが、そこからさらに成長してオールスターの座まで上り詰めた選手です。キャリアの前半では周囲の選手に恵まれずプレイオフではなかなかハイライトされることがなかった彼ですが、2014年からチームは変わり始め、ウォールもリーグ最高のPGの1人としての評価を受けるようになっていきます。

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【選手紹介】史上最強になるポテンシャルを秘めていたC:ビル・ウォルトン(3/3)

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ボストンでキャリアの大逆転を果たした元MVP

前回の記事ではシーズンMVPを受賞したビルがケガを原因にブレイザーズを去り、クリッパーズに移籍したもののキャリアの再生を果たすことはできず、そのままセルティックスへ移籍することになりました。この頃にはスターとして活躍していたころのビルは完全に鳴りを潜めていましたが、彼の能力を信じたセルティックスで彼は感動的な復活を果たすことができました。今回はそんなビルのキャリア終盤について紹介していきます。

f:id:koroUTAS:20211125210459j:plain最後の復活のチャンス~悲劇の引退

クリッパーズを去ることを決心した彼には前回紹介したようにレイカーズとセルティックスの優勝候補2チームからのアプローチがありました。そしてビルはセルティックスを選択し、ロバート・パリッシュとケビン・マクヘイルのバックアップとしてプレーすることを決心しました。実際には1985年9月にクリッパーズからセルティックスへトレードされる形で移籍したビルはボストンに身を置くことになりました。ボルトンに到着してから病院で受けたレントゲン検査で彼の足と顔の画像を見た医師たちはビルニップレーの許可を出すことができないと人事責任者のレッド・アワーバックに告げました。それを聞いてレッドは医師たちを「黙れ」と一蹴し、ビルに「プレーできるか」と一言だけ質問をしました。ビルは少し回答に戸惑いましたが、「まだプレーできると思う」とレッドに告げ、プレーを強行することを決めました。

そして迎えた1985~1986シーズン、ビルはHCのKC ジョーンズのもとでキャリアハイの80試合に出場しました。クリッパーズではまだスタープレーヤーとして使われていたビルでしたが、セルティックスでは完全にバックアップ選手として使われました。スタッツは大きく低下しましたが、彼はもとから高かったパス能力とリバウンド能力でチームに貢献し、その貢献が高く評価されてこの年にシックスマン賞を受賞しました。33歳で再びプレイオフの舞台に返り咲いたビルは18.2分の出場で平均7.9得点6.4リバウンド1.7アシストを平均して、少ないプレータイムながらセルティックスのベンチプレーヤーとして大きく活躍して2つ目のチャンピオンリングを手に入れました。のちにこのチームのエースだったバードはビルの加入とこの年のチームについて「ビルが健康でいられるか不安だったけど彼がチームの大きな力になることは分かっていた。今までのチームで1番のチームだった。」と評価しており、ビルがチームにとって重要な存在だったことが分かります。

優勝した翌シーズン、ビルは健康だった昨シーズンとは対照的にケガが原因でレギュラーシーズンでは10試合しかプレーすることができませんでした。プレイオフには何とか間に合い復帰することができましたが、度重なったケガによってついに彼のパフォーマンスは過去最低の水準まで落ち、プレイオフ12試合でわずか8.5分の出場で2.4得点2.6リバウンドと完全に選手としての限界を迎えていました。

その後も何度か復帰を目指していたビルでしたが、ついに彼自身も身体の限界を悟り1990年に引退を表明しました。ビルはキャリア全体で468試合に出場しFG52.1%で13.3得点10.5リバウンド3.4アシスト2.2ブロックを記録し、シーズンMVP、ファイナルMVP、シックスマン賞の3つを受賞した史上初の選手としてその偉大なキャリアに幕を閉じました。

まとめ

いかがだったでしょうか。ビルはクリッパーズに移籍してからは完全に落ち目の選手として見られ、セルティックスに移籍した時も世間からは期待の声よりも疑問の声の方が多く上がりました。しかし彼はそんな世間の評価を良い形で裏切りました。彼はシックスマン賞というベンチプレーヤーとしての最高の栄誉を得て、チャンピオンリングというチームとしての栄冠に貢献しました。最後は残念な形で終わってしまいましたが、彼のキャリアを振り返るとそんなことは気にならなくなってしまうほど偉大なキャリアでした。

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【選手紹介】史上最強になるポテンシャルを秘めていたC:ビル・ウォルトン(2/3)

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歴史に残るMVPシーズンと急激な衰え

前回の記事では史上最強レベルの大学生として大学バスケ界で暴れまわり大物としてNBAに挑戦したときから2年間をケガによって狂わされたのちにNBA入りからわずか3年でファイナルMVPを受賞したときまでのビルのキャリアについて紹介しました。今回の記事では本格的にケガに悩まされ、ファイナルMVPとシーズンMVPを受賞したブレイザーズを去りその後過ごした1チーム目までについて紹介していきます。

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MVPシーズン~わずか4年での放出

優勝を成し遂げファイナルMVPを受賞したビルは翌シーズンも爆発的な活躍を続けました。彼は58試合を出場と少し試合数が少なめでしたが、平均18.9得点13.2リバウンド5.0アシスト2.5ブロックを記録し、オフェンスとディフェンスの両方でリーグを支配していました。それはこの年の彼の受賞歴にも表れ、彼はシーズンMVPとなり、オールディフェンシブ1stチームにも選出されました。ブレイザーズはビルの貢献によって58勝を記録してプレイオフに進出しましたがこのプレイオフがビルのブレイザーズでの最後のシーズンとなってしまいました。彼は1回戦のソニックス戦の第2戦でケガをしてしまい、何とかプレーしようとX線での検査を受けましたがそこで左足首の骨折が明らかになり、プレイオフに復帰することはできませんでした。

オフシーズンにチームのケガに対する対応や不十分なケアに不満を持っていたビルはトレードを要求しました。しかし彼がトレードされることはなく、1979年にFAになったタイミングで当時はサンディエゴに拠点を持っていたクリッパーズと契約を結んで彼はブレイザーズに別れを告げました。

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新たなチームでのスタート~優勝を目指すための移籍

1979年5月にビルは7年契約をクリッパーズと結び、地元に復帰することになりました。地元にケガをしやすいとは言え昨シーズンのMVPが来たことでサンディエゴは盛り上がりましたが、彼のケガはかなり深刻でありわずか14試合しか出場することができませんでした。さらに足首のケガに加えて、1979年プレイオフで骨折した鼻骨を再び骨折してしまい、1982年までの間プレーをすることができませんでした。ビルの足の形は少し特殊であり、回復に時間がかかりましたが懸命なリハビリを経て1982~1983シーズンに復帰することができました。この年は2年プレイしていなかったとは思えないパフォーマンスを残し平均14.1得点9.8リバウンド3.6アシスト3.6ブロックという記録を残し、完全復帰の予感か感じさせました。

しかし彼のケガのダメージは確実に蓄積され、彼の身体を蝕んでいきました。復帰した時点で30歳だったビルは復帰シーズンこそ良い成績を残しましたが、次のシーズンから成績が落ち始めクリッパーズから移籍する前のシーズンには67試合の平均スタッツが10.1得点9.0リバウンド2.3アシスト2.1ブロックになりました。しかし、彼のブロック力を中心としたディフェンス力と、センターとしては中々高かったアシスト能力に目を付けた2つのチームがありました。それらのチームとはレイカーズとセルティックスであり、ビルは自分の最後の活躍の場としてセルティックスを選び1985年に移籍をしました。

まとめ

いかがだったでしょうか。ビルはシーズンMVPを受賞した時のパフォーマンスをケガによって1年間どころか半年も維持することができませんでした。クリッパーズに移籍してからの彼のプレーはお世辞にもスターレベルと言えるものではなくなっており、クリッパーズとしてはトレードでリスクを負って獲得した選手ではないとしても大きく期待を裏切られた選手になってしまいました。次の記事ではケガを重ねてもあきらめなかった彼の努力と辛抱がついに報われるときについて紹介していきますので是非彼のキャリアの最後まで知っていただきたいです。

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【選手紹介】史上最強になるポテンシャルを秘めていたC:ビル・ウォルトン(1/3)

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NBAに新しい可能性を与えたCの先駆け

ビル・ウォルトンといえば、1カ月ほど前に解雇されたキングスのHCのルーク・ウォルトンのお父さんというイメージと、ケガによってMVPシーズンの頃の輝きを二度度取り戻すことができなかった残念な選手というイメージの2つが強いかと思います。実際に彼はケガをしてからはMVPだったころを想像できないほど実力を落としてしまいましたがそれでも殿堂入りを果たしているほどNBA、ひいてはバスケットボールの歴史に大きな影響を与えた選手です。今回はそんなビル・ウォルトンのキャリアについて紹介していきます。

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衝撃の大学バスケデビュー~敗北で終えた大学バスケ

高校で素晴らしい結果をすでに残していたウォルトンは有望な選手として数多くの大学からスカウトを受けていましたが、UCLAから奨学金付きのスカウトを受けたことで即決でウッデンHCが指導を行うUCLAへの進学を決定しました。

ビルが大学に進学した時代には1年生がNCAAの試合に出るということは禁止されていたためプレーすることができませんでしたが、それ以外の試合で1年生チームとして出場した試合ではFG68.6%で平均18.1得点を平均し20勝全勝の記録を残していました。

そして長い1年目が終わり、正式にNCAAトーナメントに出場できるようになるとビルは多くの試合で圧倒的な存在として活躍するようになりました。UCLAは30勝無敗でシーズンを終えPac 8でも無敗という開いた口が塞がらないような結果を残しました。NCAAの準決勝ではビルは33得点21リバウンドでチームを勝利に導き、決勝でも19得点11リバウンドで他を寄せ付けずに優勝を決めてトーナメント最優秀選手賞を受賞しました。このシーズン彼は30試合でFG64.0%という高確率で21.1得点15.5リバウンドを平均し、オールアメリカン1stチームに選出されました。

3年目も当たり前のようにシーズンを全勝で突破、Pac 8も無敗で終えたチームとビルはNCAAトーナメントでアリゾナ大学とサンフランシスコ大学を破ってベスト4に進出しました。14得点7リバウンド9アシストを記録して準決勝を勝ち抜いたビルはこの年の決勝戦で伝説的なパフォーマンスを残しました。メンフィス州立大学との決勝戦でビルは22分の21のシューティングで44得点13リバウンド2アシスト1ブロックを記録し、ビルのこのパフォーマンスはNCAA史上最高ともいわれ87対66でUCLAはトーナメント7連覇を達成しました。輝かしい大学キャリアを歩んでいたビルですが、この時期から彼の足首と膝には爆弾があり、彼は決勝戦の残り3分でコートを後にしていました。

ビルの大学最終年、UCLAの連勝記録は88勝で止まり、ビルは背中のケガに苦しんでいました。そして最終的に脊椎のうち2本を骨折し、これは後のキャリアで彼を悩ませることになりましたが、このシーズンのうちにも彼を苦しめており、NCAAトーナメント準決勝ではNBAでも屈指の選手として活躍したデビッド・トンプソン擁するノースカロライナ州立大学に77対80の接戦で敗れ8連覇を逃してしまいました。

大学最終年に栄光を逃してしまったビルですが、大学通算で平均FG65.1%20.3得点15.7リバウンド5.5アシストを記録し、大学史上最高の選手の1人になっていました。優秀な選手として活躍していた半面、ケガのリスクが高いことが懸念されていたビルですがその実力と才能は明らかであり1974年NBAドラフトでは1位でブレイザーズに指名されました。

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すぐに襲ってきたケガ~ファイナルMVPシーズン

UCLA在籍時にABAのダラス・シャパラルにアーリードラフトされていたビルはウッデンHCからもABAの斡旋を受けていましたが、ABAでプレーすることを拒み1974年NBAドラフトでブレイザーズから指名され、契約を結ぶことを決心しました。大学での実績やすでに見えていた才能によって大きな期待を背負っていたビルでしたが、NBAに入ってからの2年間で足のケガに悩まされ、164試合中86試合しかプレーすることができませんでした。1年目はFG51.3%で12.8得点12.6リバウンド4.8アシスト2.7ブロック、2年目はFG47.1%で16.1得点13.4リバウンド4.3アシスト1.6ブロックを平均しましたがケガのせいで期待されていたよりもインパクトをン超すことができていませんでした。

しかし3年目のシーズン、ビルは大きなインパクトを残し個人としてもチームとしても躍進を成し遂げることになります。ビルは健康的にシーズンを過ごすことができ、65試合に出場して平均FG52.8%で18.6得点14.4リバウンド3.8アシスト3.2ブロックを記録してリバウンド王、ブロック王を受賞し、オールスターとオールNBA1stチームに選出されました。プレイオフではブルズとナゲッツを破ってカンファレンス・ファイナルに進出してレイカーズと対戦することになりました。そこでUCLAの先輩のカリーム相手に19.3得点14.8リバウンド5.8アシスト2.3ブロックを平均しスウィープでファイナルに進みました。NBAファイナルではシクサーズとの試合となり、レジェンドのダレル・ドーキンズとのマッチアップになりました。完全に実績で浜変えていたビルでしたが、ここで大躍進し彼はファイナル平均18.5得点19.0リバウンド5.2アシスト3.7ブロックのモンスターパフォーマンスでチームを優勝に導きファイナルMVPを受賞しました。

まとめ

いかがだったでしょうか。プレイオフでの活躍によって一躍スーパースターの仲間入りを果たしたビルですが、ケガによってこの後のキャリアは大きく狂っていくことになります。センスと身体能力が非常に魅力的な彼でしたが、ケガにより身体能力を失ってしまいます。しかしそのバスケセンスはスバ抜けたものであり、それが彼のケガ後のキャリアを支えていくことになります。次回以降の記事ではそれについて中心に紹介していきます。

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【選手紹介】知名度の低いレジェンドC:ジェリー・ルーカス(2/2)

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ニューヨークで優勝を果たすことができたレジェンド

前回の記事で紹介した時点ではルーカスは高校で始めたばかりのバスケットボールで、世界最高峰のリーグとされるNBAで世代最高レベルの選手として活躍していました。しかし自身のケガや他チームのメンバー構成が大きな原因となり優勝を達成することができていませんでした。では今回はルーカスがニューヨークでついに優勝を達成し、そしてレジェンドとして引退するまでのキャリアについて紹介していきます。

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チャンピオンシップに挑戦し続けた将来のレジェンド~ニューヨークでの新たなスタート

自身のケガによって悔しい敗戦を経験したルーカスはリベンジを決心して1965~1966シーズンに挑みました。彼は前年の平均43.4分を超える44.5分間プレーし続け、21.5得点21.1リバウンドを記録しました。チームの本拠地で行われたオールスターゲームで26得点19リバウンドを記録したルーカスはこのパフォーマンスが高く評価されオールスターMVPを受賞しました。この頃には体重が113kgほどまで増加しており、ビッグマンとしてのコンディションが不安視されていましたが、それでも彼はリーグ最強のビッグマンの1人として活躍していました。安定したパフォーマンスでロバートソンと共にチームを引っ張りプレイオフに進出しましたが、またしても彼は背中を不慮の事故でケガをしてしまい1回戦のセルティックス戦で敗退することになりました。

このシーズンの後、チームは低迷し始め勝てないチームにストレスを感じていたルーカスはオフコートでの活動に力を入れ始めました。彼は投資に没頭するようになり、主にファストフードチェーンに投資するようになりました。彼の思惑は当たり彼は当時のリーグの中では2,3人しかいなかった億万長者の1人になり、玩具やゲームを販売する会社を立ち上げるまでに自身の経済的な価値を上げることに成功しました。

会社経営や投資にリソースを割き始めたといっても彼のコートでの実力は全く衰えておらず、ケガから完全復帰した1967~1968シーズンには82試合すべてに出場し、FG51.9%で平均21.5得点19.0リバウンドを記録していました。チェンバレンに次ぐリーグ2位のリバウンド数と出場時間を記録していたルーカスを擁したロイヤルズでしたが、ハッピー・ハーストンが48試合、ロバートソンが65試合と中心選手の欠場が目立ちプレイオフに出場することはできませんでした。

そしてここからアメリカ経済が困窮するという事態に陥ったことで、ロイヤルズは崩壊の一途をたどることになり1971年にルーカスはニックスにトレードされてしまいました。この頃にはリーグトップの正確さを持ったスコアラー、そして最高のリバウンダーとして知られていたルーカスは、ウォルト・フレイジャーのアウトサイドシュートによって広がったスペースを利用したポストプレーで31歳ながら相手を圧倒するようになりFG51.2%で平均16.7得点13.1リバウンドを記録しました。プレイオフではさらにパフォーマンスを上げ、レイカーズとのファイナルでは20.8得点9.8リバウンド6.2アシストを平均したルーカスでしたが、チェンバレン・ウェスト・グッドリッチのBIG3に1勝4敗で圧倒され優勝を逃してしまいました。

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ついにつかんだ優勝~衰えの激しかったラストシーズン

ニックスでの2年目、今までビッグマンとして負担のかかる長時間のプレーと重めの体重に身体が耐えきれなかったのか、この年からルーカスのパフォーマンスは大きく落ちていきました。彼はベンチプレーヤーとして出場するようになり28.2分間の出場で平均9.9得点7.2リバウンドを記録しました。スコアラー、リバウンダーとしてチームに大きく貢献することが難しくなったルーカスでしたが、彼は大学時代から得意だったパスに注力するようになり、このシーズンにキャリアハイの4.2アシストを平均しました。プレイオフではさらにパフォーマンスが落ちプレータイムが少なくなったルーカスでしたが、ビッグマンとしては非常に高いFT87.0%を記録し、確実に得点できる選手として活躍してレイカーズを4勝1敗で降してついにNBA優勝を成し遂げました。

ディフェンディングチャンピオンとして迎えた1973~1974シーズン、ルーカスは72試合に出場しましたが、すでに体は限界を迎えており大きく実力が落ちました。今まで50%を超えていたFG%も46.2%まで低下し、FTでも69.8%とお世辞にもプラスの選手として見ることはできなくなっていました。そして終わりを感じたルーカスは翌シーズンに引退し、そのキャリアに幕を閉じました。

まとめ

いかがだったでしょうか。ルーカスは長い間リーグトップクラスの選手として活躍し、ベンチ出場になったニックスでも自分の強みを理解してパスで貢献することができた非常に頭の良い選手です。彼はキャリア通算で5回のオールNBAチーム選出(3回の1stチーム、2回の2ndチーム)、7回のオールスター選出、1回のNBAチャンピオン、1回のオールスターMVPを受賞した優秀な選手です。同世代にラッセルやチェンバレンがいたせいで正当な評価を受けることが少ない選手ですが、実績やインパクトは2人に負けずとも劣らないので興味があれば調べてみてほしい選手の1人です。

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【選手紹介】知名度の低いレジェンドC:ジェリー・ルーカス(1/2)

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ニューヨークで優勝した優秀なビッグマン

ジェリー・ルーカスはキャリアでNBAチャンピオン、7度のオールスター、1度のオールスターMVPなど数多くの実績を残しているレジェンドながら、チャンバレンやラッセルなど2人の歴代最強選手候補がいた1960年~1970年代にプレーしたことによってどうしても知名度が低くなってしまう選手です。今回はそんな同世代選手によって実力と知名度が反比例しているジェリー・ルーカスのキャリアについて紹介していきます。

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瞬時に花開いた才能~プロへの挑戦

オハイオ州ミドルタウンで生まれ育ったルーカスは高校2年の時にバスケットボールを始め、15歳ながらリングに手が届くどころか見下ろすような形でプレーをすることができるような選手でした。プレーし始めた最初の頃はパスや長身を生かしたリバウンドでチームに貢献していましたが、少しずつスキルを身につけスコアラーとしても驚異的な選手として成長しました。身長や身体能力が高かったことでルーカスは周囲のディフェンダーを無視するような形でシュートをすることができ、高校では平均FG60%で合計2460得点を記録しました。彼の高校はルーカスのいた3年間で76勝1敗の記録を樹立し州チャンピオンに2年連続で輝きました。

高校で十分な実績を残したルーカスはジョン・ハブリチェックと共にオハイオ州立大学でプレーすることを決断しましたが、当時の大学スポーツでは1年目のプレイヤーはNCAAの試合に出ることが禁じられていたためルーカスは1959~1960シーズンにデビューしました。NCAA初シーズンとなったこの年、彼が率いたオハイオ大はトーナメントで優勝し、トーナメント平均で26得点16リバウンドを記録していたルーカスは最優秀選手賞を受賞しました。

翌年もNCAAトーナメントに出場したルーカスはトーナメント史上初の1試合30得点30リバウンド以上を記録した選手となりました(33得点30リバウンド)が、決勝戦でシンシナティ大学に65対70でアプセットされてしまいトーナメントを2連覇することはできませんでした。

そして大学最後のシーズン、2年目のシーズン・オリンピック・3年目のシーズンと2年間通してプレーし続けたルーカスはチームを3年連続のNCAA決勝に導きました。しかし準決勝のウェイクフォレスト大学との試合でケガをしてしまったルーカスは、そのままリベンジ戦のシンシナティ大学との試合に臨むことになりました。元々ルーカスは大学を卒業してからプロとしてのキャリアを歩むつもりはなく、シンシナティ大との試合が最後の試合になると覚悟をして戦いました。しかし彼のその覚悟も空しくケガによって普段のパフォーマンスを発揮することができなかったことによってまたしてもシンシナティ大に敗れてしまい大学最後のシーズンを悔しい形で締めくくることになってしまいました。しかし彼の大学での活躍は圧倒的なものであり、現在でも歴代最高の大学生プレイヤーとしての評価を受けるようになりました。

大学を卒業した後はプロとしてプレーしないことを決心していたルーカスでしたが、オリンピックや世界大会でNBA選手や後にNBA選手となったプレイヤーたちとプレーしたことをきっかけにルーカスはプロとしてのキャリアに興味を持つようになり、当時ABLという別リーグにドラフトされたルーカスはそこでプロとしてのキャリアを歩み始めました。ABLで期待を超えるような結果を残したルーカスをNBAのチームが見逃すはずもなく、1962年にシンシナティ・ロイヤルズにドラフトされました。f:id:koroUTAS:20211121214945j:plain

優勝を逃したルーキーシーズン~オールスターMVPシーズン

1962年にドラフトされたルーカスは1963年の8月に正式にチームと契約を締結しました。当時のロイヤルズにはオスカー・ロバートソン、ウェイン・エンブリー、ジャック・トゥィマンの3人のオールスター選手がおり、そこにルーカスというすでに実績ある選手を獲得したチームは優勝を期待されるようになりました。このシーズン、ルーカスは20得点を何度も記録し、4回の30リバウンドゲームと1回の40リバウンドゲームを記録して圧倒的なルーキーとして活躍し、新人王受賞といきなりのオールNBA2ndチーム選出を受けました。絶対的な戦力を追加して破竹の勢いでNBAファイナルに進出したロイヤルズでしたが、背中をケガしたままプレーしたルーカスのパフォーマンスは明らかに落ちており、惜しくもこの年は優勝を逃してしまいました。

そうして迎えた2年目シーズン、ルーキーシーズンではリバウンドとパスでチームに貢献しようとしていたルーカスでしたが、スコアラーとしての活躍をより求められるようになり、このシーズン平均21.4得点を記録しチーム2番目のスコアラーとして活躍するようになりました。また、平均20.0リバウンドを獲っていた彼はある意味ロバートソンよりもチームにとって大切な存在として見られており、その証拠にこのシーズン彼は平均43.4分間プレーしていました。ビッグマンとして致命的な膝の故障に苦しんでいたルーカスでしたが、抗炎症薬の処方によって何とかプレーすることができていました。プレイオフでは1回戦でチェンバレン擁するシクサーズに敗れてしまいましたが、平均48.8分のプレーでFG50.7%で23.3得点21.0リバウンドを記録し個人としてはしっかり活躍していました。

まとめ

いかがだったでしょうか。ルーカスは高校2年生でバスケットボールを始めた経験の少ない選手ながら、NBAでもいきなり大きなインパクトを残すことができた数少ない選手です。2年目の時点で膝の痛みを抱えてしまい今後のキャリアに暗雲が立ち込めることになりますが、どのようなキャリアを送っていったのでしょうか。

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